間宮氏館(まみやし) | |
別称 : 川崎塁、間宮信盛館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 間宮氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : 京浜急行京急川崎駅徒歩3分 | |
<沿革> 『新編武蔵国風土記稿』に「川崎塁」として記載があり、「間宮豊前守信盛が居住せし所なり」 とある。信盛は後北条氏家臣としてその名がみられる。永正七年(1510)の権現山の戦いで 権現山城に籠り、「神奈川の住人間宮の某」の名乗りを上げて奮戦した人物として『北条記』に 描かれているのは、信盛ないしその父信冬とされる。 いつごろ川崎に入ったのかは不明だが、間宮氏は伊豆国に端を発するとされ、北条氏の勢力 拡大に伴って川崎を領することになったものと推測される。川崎には平安時代末に河崎基家が 居館を構え、鎌倉時代には基家の孫渋谷重国の娘婿となった佐々木秀義の子らが所領を引き 継いだと考えられている。間宮氏は佐々木氏の後裔を称しているが、川崎が佐々木氏ゆかりの 地であることと、川崎を領有することになったことの間に関連があるのかは不明である。『記稿』 では、間宮氏は「秀義の兄成頼が庶流」とあり、他方『尊卑文脈』では秀義の従弟行範の系統 とされている。いずれにせよ、嫡流である秀義からみて間宮氏が佐々木氏の傍流にあたると している点は共通している 川崎が間宮氏の所領であることは『小田原衆所領役帳』からも確認できるが、間宮氏の居城 は笹下城であったとされ、川崎の館は遠隔地支配の代官所的なものであったと推測される。 天正十八年(1590)に北条氏が滅ぶと、間宮一族の多くは代わって関東に入封した徳川家康 に仕えた。彼らは分散していた間宮氏旧領の各所に陣屋を構えたが、川崎の名はその中には 見られず、家康入国に伴って廃されたものと推測される。 <手記> 京急川崎駅のすぐそばにある宗三寺境内が、間宮氏館跡とされています。旧東海道から一本 脇に入ったところにあり、かつては背後に古川という小川が流れていたというものの、要害性は ほとんどありません。あくまで代官所的な館城であったものと思われます。 門前の説明板には、戦国時代に間宮氏が同寺を中興したことが記されており、これや館跡に つながる現地での唯一のものです。 ちなみに、幕末に活躍した間宮林蔵や杉田玄白は、信盛の末裔とされています。 |
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間宮氏館跡(宗三寺)。 |