革島城(かわしま)
 別称  : 佐竹城、川島城
 分類  : 平城
 築城者: 革島義安か
 遺構  : 堀跡
 交通  : 阪急京都線/嵐山線桂駅徒歩10分


       <沿革>
           土豪革島氏の居城である。革島氏は、源新羅三郎義光の孫佐竹昌義の五男義季を祖とすると
          伝わる。義季の子義安は鎌倉時代初期に近衛家から川島荘の下司職を与えられ、川島に住して
          革島氏を名乗ったとされる。
           しかし、革島氏が史料上に現れるのは14世紀に入ってからである。正和元年(1312)に、革島
          亀寿丸(後に憲安と称)が近衛家から川島南荘の下司職に任じられたことが、文書に残っている。
          元服前の人物がいきなり下司職に任命されるとは考えづらく、少なくとも前代から世襲したものと
          推測される。
           『日本城郭大系』によれば、嘉暦元年(1326)の『革島庄条里坪々図』に「御所カキ内」と記され
          ており、この頃までには城館が営まれていたものと推測している。建武三年(1336)には、憲安の
          子幸政が足利尊氏に属して南北朝の戦乱を戦い、改めて川島南荘の地頭に任じられた。
           天文十年(1547)に、細川玄蕃頭国慶が「河島城」を攻めたことが、『長享年後畿内兵乱記』に
          みえる。国慶は細川氏綱の一族で、同年に高雄城を築いて細川晴元に抵抗した。このことから、
          当時革島氏は晴元方に属していたことがうかがえる。
           永禄八年(1565)、三好三人衆の1人石成(岩成)友通によって革島氏は逐われ、革島城には
          鶏冠井氏が入った。同十一年(1568)に織田信長が上洛すると、革島一宣は信長にしたがって
          鶏冠井氏を討ち、革島城を回復した。
           天正十年(1582)の本能寺の変に際し、一宣の子秀存は明智光秀に属して山崎の戦いに従軍
          した。戦後、革島氏は所領を没収されたが、江戸時代に入り、革島村に戻って帰農した。


       <手記>
           革島城は桂駅の南東、三宮神社の東、延福寺の西、冷聲院の北に位置しています。近年まで
          城域付近に革島氏の居宅があったそうですが、現在は取り壊され畑地や荒れ地となっています。
          城内の一角に革島春日神社があります。
           遺構としては、北辺と東辺の堀跡が水路となっています。山本正男「京都市内およびその近辺
          の中世城郭」(『京都大学人文科学研究所調査報告 第53号』)では、東辺の水路については堀
          ではないとしていますが、論拠は不明です。また、古地図をみると、革島城址の外側に集落全体
          を囲う水路の存在が認められます。これを環濠集落の跡ではないかと疑うのはごく自然と思われ、
          『大系』ではその可能性を否定していませんが、「中世城郭」では否定的です。
           集落内には、佐竹氏後裔を称する革島氏の「五本骨扇に月」紋が散見されるのですが、城跡に
          ついては残念ながらほとんど忘れられているようです。

           
 革島城址の一角に鎮座する革島春日神社。
北辺堀跡の水路。 
 東辺堀跡の水路。


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