川連城(かわつれ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 川連仲利 | |
遺構 : 土塁、堀跡 | |
交通 : JR両毛線・東武日光線栃木駅からバスに乗り、 「ローソン栃木川連店前」下車徒歩5分 |
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<沿革> 応仁年間(1467〜69)に、川連伊賀守仲利によって築かれたとされる。川連氏は藤原秀郷流 小野寺氏の庶流とされるが、詳しい系譜は定かでない。小野寺氏は都賀郡小野寺を本貫とし、 鎌倉時代中期ごろに出羽国雄勝郡へ下向し、勢力を伸ばした。同郡に川連村があり、川連氏 はこの地で小野寺氏から分家し、下野国へ移ったともいわれるが、どちらが発祥の地かは確証 がない。ちなみに、雄勝郡の川連は「かわつら」と読む。 川連氏は佐野氏に従属していたが、永禄六年(1563)には佐野氏と対立する同じ秀郷流の 皆川城主皆川俊宗に川連城を占領された。俊宗は、大平山の中腹にあった円通寺を川連へ 移し、城を大きく拡張したとされる。 天正六年(1578)、佐野氏方の粟野城主平野久国が川連城を攻め落とし、城主川連仲重は 逃亡したとも討ち死にしたともいわれる。ただし、久国は同三年(1575)に皆川広照の家臣斎藤 秀隆に粟野城を攻め落とされ、佐野氏を頼って落ち延び、同十二年(1584)に城を奪還したとも いわれ、時系列に矛盾が生じる。 広照は後に平野氏から川連城を奪い返し、皆川氏所有のまま天正十八年(1590)の小田原 の役を迎えた。役後、広照は栃木城を築いて新たな居城とした。このときに廃城となったものと みられるが、詳しい廃城時期は不明である。 <手記> 川連城は、永野川東岸に存在した大規模な平城です。川連交差点脇の川連天満宮前に石碑 と説明板がありますが、ここはギリギリ南西の城外にあたるようです。周辺には駐車スペースが ないので、東方の川連公民館駐車場を利用するとよいでしょう。公民館前に東西に延びる集落 は、大手南の上宿・本宿・下宿と呼ばれる外郭部に相当するようで、道路沿いの水路は南端の 堀跡のラインと合致します。 城内をJR両毛線と栃木バイパスが十字に貫いていて、多くの資料では遺構がほとんどないと されていますが、よくよく縄張り図と照らし合わせると、ところどころに痕跡とみられる地形が散見 されます。 まず、南からバイパス跨線橋を渡った北西麓、鋼材工場西隣の民家の生活道路沿いに、西城 と呼ばれる曲輪の土塁跡らしき地形があります。その脇の旧出流川の流路跡も、防御の一端を 成していたと考えれば、見どころの1つといえるでしょう。 そこから跨線橋の東側へ移ると、二曲輪ないし三曲輪の土塁ではないかと思われる塚状地形 がありますが、本当に遺構なのかは確信がもてません。その北側には、さらに外郭のものとみら れる東西方向の土塁状地形があります。 一曲輪の南東3分の1ほどは線路に削られていますが、残りの北3分の2ほどの曲輪跡と堀跡 は、跨線橋からもそれとなく見下ろして分かる感じに残っています。輪郭式の全体的な大きさに 比べて、一曲輪はかなり狭く、皆川氏に拡張される以前の川連城は、一曲輪から二曲輪程度の 規模だったのではないかと推察されます。 築城者の川連氏については、小野寺氏との関連で下野が先か出羽が先かの鶏卵の議論が 残っています。物証がないため推論の域を出るものではありませんが、この地にいた川連氏の 一族が、出羽に根を張っていた小野寺氏を頼るということはあっても、小野寺氏から出羽に派生 した川連氏が、やはり同族とはいえ佐野氏を頼って下野に戻るということがあるものか、個人的 には少々疑問です。 |
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川連天満宮前の城址碑と説明板。 | |
跨線橋から一曲輪跡を見下ろす。 | |
西城の土塁とみられる地形。 | |
同上。 | |
西城脇の出流川跡。 | |
跨線橋北東麓の塚状地形。土塁跡か。 | |
同上。 | |
その北の東西方向の土塁状地形。 | |
一曲輪跡のようす。 | |
大手跡に建つ滝沢ハムの工場。 | |
大手南の下宿・本宿・上宿付近のようす。 水路は堀の名残か。 |
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おまけ:ちょうどよく通過したJR両毛線。 |