皆川城(みながわ) | |
別称 : 法螺貝城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 皆川氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR両毛線・東武日光線栃木駅からバスに 乗り、「皆川郵便局前」下車徒歩5分 |
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<沿革> 藤原秀郷流小山氏庶流皆川氏累代の居城である。皆川氏は、小山政光の次男長沼宗政の 孫にあたる皆川宗員にはじまる。皆川城を築いたのも宗員であるともいわれるが、宗員が入植 した13世紀前半には、まだ山上に居城を構える事例は乏しく、疑念が残る。 宗員の6代子孫の宗常は、執権北条高時に背いて元享三年(1323)に自害を命じられ、所領 を没収された。これにより皆川氏はいったん滅び、もし皆川城が既に築かれていたとするなら、 やはり廃城となったものと考えられる。 その後、15世紀に入り、宗員の弟長沼宗泰の子孫とされる長沼秀宗ないし、その子氏秀が 皆川に拠点を構えた。少なくとも皆川の山城部は、このときに築かれたものと推測される。氏秀 の子宗成は皆川氏を称したとされ、血筋は同じであるが、宗員の系統を第一次皆川氏、宗成の 系統を第二次皆川氏と呼ぶ。大永三年(1523)、河原田にて宇都宮忠綱軍を迎え撃った宗成は、 同族の小山氏や結城氏の援軍を得て撃退に成功するものの、弟の成明ともども討ち死にした。 宗成の子成勝およびその子俊宗は、引き続き宇都宮氏と争ったものの、ついに屈して同氏の 傘下に入った。しかし、俊宗の子広照は、天正七年(1579)に勢力を伸ばしてきた後北条氏に 従属し、宇都宮氏に対して独立した勢力となった。 本能寺の変や天正壬午の乱を境に、広照は再び北条氏と敵対し、天正十三年(1585)に同氏 の大軍に攻め込まれた。皆川勢は皆川城前方の大平山や草倉山に籠って抗戦したため、城が 戦場となることはなかった。皆川家臣の多くが討ち死にするという激戦の末、徳川家康や佐竹 義宣の斡旋により広照は北条氏に降った。 天正十八年(1590)の小田原の役に際し、広照は小田原城に籠城したが、豊臣方の軍勢が 包囲すると、城を脱出して交流のあった家康の陣に投降した。主なき皆川城は、上杉景勝らに 攻め落とされたと伝えられるが、発掘調査で戦闘の痕跡がみられないことなどから、実際には 戦わずして開城したものとみられている。 戦後、豊臣秀吉から所領を安堵された広照は、居城を栃木城へと移した。これにより、皆川城 は廃城となったとされる。 <手記> 東北自動車道を走っていると嫌でも目につく皆川城跡ですが、齢40にして初めて登りました笑 なんといっても南側全面を丸裸にしていながら、一年を通じて芝のままきれいに保っているのが 印象的です。南麓の居館跡は皆川公民館となっていて駐車場やトイレも完備。さらにはパンフ も用意されていて、城跡に興味のない人でも気持ちよく登れるスポットとなっています。 法螺貝城の別称のとおり、帯曲輪が幾重にも取り囲む構造で、竪堀や枡形虎口も散見されて 史跡公園としても比較的よく整備されているように思います。城跡ファン向けの見どころはむしろ 山の裏手にあり、尾根筋を断つ堀切や現地の案内では枡形門跡とされている腰曲輪群、さらに 二の丸背後にある竪堀とも横堀とも竪土塁ともつかない長大な三重堀といった見どころが連続 します。 山頂の本丸には展望台があり、もちろん眺望は絶佳。まだ晩秋でしたが、遠く筑波山まで望め ました。 これだけ規模の大きな皆川城ですが、面白いのは皆川氏が皆川城を防衛拠点とみなしている ようには見えない点です。発掘調査の結果、小田原の役の際に戦闘があったとは考えられない ということは、皆川城がそもそも実戦を(少なくとも大きな攻防戦は)経験した形跡がみられない ことを意味しているのかなと推察されます。さらにいうと、栃木城へ移って廃城となったとすると、 1590年までの姿をそのまま今に伝えている、とても貴重な遺構であるといえるでしょう。 |
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皆川城山を望む。 | |
南麓居館脇の竪堀。 | |
同じく南側斜面の竪堀。 | |
帯曲輪と土塁。 | |
帯曲輪のようす。 | |
同上。 | |
城山背後尾根筋の曲輪。 | |
骨筋の堀切。 | |
堀切向こうの曲輪と土塁。 | |
堀切下の現地案内にある枡形跡。 | |
本丸のようす。 | |
展望台からの眺望。 左手奥に筑波山が見えます。 |
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本丸から二の丸を見下ろす。 | |
二の丸の櫓台状土塁。 | |
二の丸背後の三重竪堀。 | |
二の丸南下の井戸跡。 | |
同じく枡形門跡。 | |
城山南西斜面の竪堀。 | |
帯曲輪間の堀跡。 | |
居館西側背後の堀と土塁。 | |
居館西側背後の水源。 | |
居館西側背後の土塁。 | |
居館部の堀跡。 |