城所城(きどころ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 城所盛直か
 遺構  : なし
 交通  : 小田急線伊勢原駅徒歩25分


       <沿革>
           『新編相模国風土記稿』によれば、「浄心寺境内に在り 方二町許 何人の居城たるを伝へず 或説
          に左大臣冬嗣八世の孫 豊後守盛久が四男 城所四郎盛直の居城たりしと云 按ずるに 観応年間
          (1350〜51)の頃 城所藤五郎正揚当初に住せし由 家系にみへたれば 城所氏世々の居城なりし
          なるべし 其藤五郎直賢の時 三州に移れり」とある。左大臣冬嗣とは藤原冬嗣を指し、豊後守盛久
          とは糟屋盛久のことである。盛久の四男四郎盛直が城所に住して城所氏を称したということであるが、
          『寛政重修諸家譜』によれば城所四郎の諱は盛員となっている。『家譜』には盛員の子有政まで名が
          載っているが、観応年間に登場する藤五郎正揚との関係は不明である。
           正揚の子直賢の代に城所氏は三河国へ移ったとあることから、14世紀末ごろには廃されていたと
          推測されるが、詳細は不明である。

       <手記>
           城所城は、浄心寺の背後にあったとされていますが、城山は昭和四十一年(1966)の新幹線建設
          に伴う採土で消滅しています。古図によれば、城は北から延びる丘陵の先端がフック状に折れた先に
          あったとされています。尾根の付け根を堀で切った程度の簡単なものだったようで、鎌倉から室町時代
          初期あたりまでの在郷領主の城館程度のものであったと推測されます。おそらく平時の居館が浄心寺
          境内付近にあり、背後の丘を物見程度に城塞化したのでしょう。
           谷を挟んだ西側には、三浦義同が居城とした岡崎城があります。ただし、史料上の時系列関係や、
          構造上の比較から、おそらく両者が併存していたことはなかったと思われます。
           城があったとされる場所は均されているうえに宅地化が進み、丘上の砦があったとはとても思えない
          状態です。残念なことに、城域外の城西側の丘陵は残っていて、浄心寺墓地や畑地として利用されて
          います。墓地からは南方への眺望が開けています。

           
 浄心寺。
 城山は背後の青空のあたりにありました。
浄心寺墓地からの眺望。 


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