城井ノ上城(きいのこ)
 別称  : 城井谷城、城井郷城、萱切城
 分類  : 山城
 築城者: 宇都宮氏
 遺構  : 門跡
 交通  : JR日豊本線築城駅よりバス
       「上寒田」バス停下車徒歩40分


       <沿革>
           城井谷(きいだに)領主城井宇都宮氏の隠れ城と伝わる。城井氏は、宇都宮宗円の二男
          宗房の子信房にはじまる(異説有)。信房は源頼朝に従って源平合戦で活躍し、文治元年
          (1185)ないし建久六年(1192)に豊前守護に任じられ、城井郷に居を定めた。城井谷は、
          城井川流域の地形そのものが求菩提山をはじめとする急峻な山々に囲まれた天然の要害
          であるため、城井ノ上城のような詰城がいつごろどのような経緯で必要となったのかは定か
          でない。
           城井ノ上城が歴史の表舞台に登場するのは、天正十五年(1587)の豊臣秀吉による九州
          平定に際してである。時の当主城井鎮房は、大友氏から島津氏に鞍替えし、半ば独立して
          動いていた。秀吉軍が九州入りすると、鎮房は抗しきれず降伏したが、自らは病気と称して
          秀吉に伺候せず、嫡男朝房にわずかな手勢をもたせて参陣させただけであった。
           島津氏の降伏後、秀吉は城井氏に対して伊予への転封を命じた。石高には諸説あるが、
          額面上はわりの悪い条件ではなかったといわれる。しかし、鎮房は父祖伝来の土地を去る
          ことを頑として受け入れなかった。他方で、城井谷を含む豊前6郡が黒田孝高に与えられ、
          鎮房らは城井谷の明け渡しを要求された。窮した城井氏に対して、豊前2郡を与えられた
          毛利勝信が同情し、仲介の労をとることを申し出て、ひとまず自領の赤郷柿原に落ち着く
          よう諭した。城井氏一族はこれに従ったが、勝信の尽力もむなしく城井郷召し上げがほぼ
          確定すると、鎮房は腹を決めて決起した。
           十月八日、城井氏一族郎党約300人が、城井谷を急襲してこれを奪還した。鎮房の決起
          に呼応して、豊前の国人衆が一斉に蜂起し、豊前国人一揆と呼ばれる内乱に発展した。
          事態を重くみた秀吉は、毛利輝元に加勢を命じ、翌十一月に黒田・毛利連合軍が城井谷に
          迫った。城井勢は、城井ノ上城で迎え撃つ一方、城井谷の各所に伏兵を配してゲリラ戦を
          展開し、黒田勢を大いに打ち破った。このとき黒田軍の指揮官であった孝高の子長政は、
          頭を丸めて敗戦を父に詫びた。長政配下の武将にも追って頭を丸めるものが相次いだが、
          後藤又兵衛基次だけは、「負け戦の度に頭を丸めていたら、いつまで経っても毛が生え
          そろうことがない」と一笑に付した。この一件が、長政と又兵衛の確執の一因となったと
          いわれる。
           黒田父子は戦略を変え、城井谷には監視の兵だけを置いて鎮房を封じこめ、その間に
          他の一揆勢を各個撃破していった。黒田父子は城井氏侮りがたしとして決して自ら攻める
          ことはなかったが、鎮房も進退に窮したため、ついに和議が結ばれることになった。条件
          として鎮房の娘が長政に嫁ぐことになり、豊前国人一揆はひとまずの終息を迎えた。
           しかし、黒田父子は城井氏に心をゆるすことはなかった。翌天正十六年(1588)、完成
          間もない中津城へ招かれた鎮房は黒田氏によって謀殺され、鎮房の娘も処刑された。
          鎮房の嫡男朝房も、わずかな供回りを連れて肥後の検地へ向かうよう命じられた途中で
          襲撃され落命した。城井谷には80歳を超えた鎮房の父長房がいたが、黒田氏の追討軍
          によって蹂躙され、城井宇都宮氏は滅亡した。


       <手記>
           城井ノ上城というのは、現地の説明にある名称で、『城井谷絵図』に「キノコウ」城とある
          ことから付けられたもののようです。一般には萱切城や城井谷城として知られています。
          ただ、明確に「城井谷城」と呼んでいる史料は管見のところなく、城井谷城という場合は、
          城井ノ上城をはじめ、城井谷に散在する諸砦をまとめたものではないかと推察されます。
          『日本城郭大系』にある「瓢箪城」という別称も、平時の居館と目される城井氏館のある
          伝法寺と、その南の本庄の2つの地域を指したもののように思います。
           城井ノ上城は、城井谷を形成する城井川の最上流部に位置しています。周囲は修験の
          山である求菩提山に代表される、岩肌剥き出しの山塊に囲まれた秘境的なところです。
          あまりに山深過ぎて、地図上に目印になるようなものもなく、上に示した位置は「おそらく
          この辺!」という推定です…。
           県道32号線が牧の原橋で城井川を渡るところに「宇都宮一族之碑」があり、ここが城跡
          への入り口です。駐車スペースもあるので、車で訪城することを強く推奨します。ここから
          林道へ入ると、まもなく「弓三丁ノ岩」と呼ばれる岩塊が現れます。この岩は、人が削った
          のか沢との間に道1つ分だけ口が開いています。弓三丁ノ岩が形成する天然の城門は、
          大手にあたる最前線の要害で、弓兵を3人配置するだけで防衛に事足りたことからその
          名が付いたとされています。
           さらに進むと、わりと新しい水子地蔵があり、その脇が登城口です。少し上ると、表門に
          着きます。門といっても、岩と岩が寄り重なった隙間に過ぎず、腰を折らないと通り抜ける
          ことはできません。これをくぐって攻め込めといわれても、命がいくつあっても足りたもの
          ではありません。一応、天然の要害ではありますが、やはり人が手を加えているのか、
          同様の岩の門が城内にあと2か所ほど見受けられました。
           さて、門をくぐっていよいよ城内ですが、城といっても、はっきりいってただの沢谷です。
          行けども行けども城らしい造作は見られず、ひたすら渓流ウォーキングが続きます。途中
          に「城井ノ上城跡」の標柱がありますが、そこが城内でなにか特別な場所というようにも
          見えず、さほど感慨も湧きません^^; 中心部かな?と思われる祠と巨大な岩のある空間
          もあるのですが、周囲は削平された様子もないので、結局なんともいえません。人間の
          息遣いを感じさせてくれるのは、昭和三十年代まで現役だったという炭焼窯だけです。
           さらに渓流ウォーキングを20分ほど続けると、裏門に到着します。裏門といっても、これ
          またぽっこり口のあいたただの岩の壁です。壁の麓には「番人の穴」と呼ばれる洞穴が
          あるのですが、こんなところで夜番を命じられようものなら、私なら発狂します(苦笑)。
          岩壁はほぼ直角の断崖で、鉄鎖と足をかける窪みを頼りに登ります。足を踏み外したり
          鎖が抜けたりすれば、たぶんあの世行きです。下はとても見られませんでした。これを、
          鎧を着て上り下りするのは、ちょっと無理なんじゃないかな、とすら思います。登りきった
          ところで周囲を見回しても、とくになにがあるわけでもなく、むなしくまた同じ崖をよじ下り
          ました。やっていることはほとんどインディ・ジョーンズで、ほぼ天然100%の要害である
          ことが実感できました。
           ひとつ疑問として残ったのは、南北朝時代くらいまでならいざ知らず、安土桃山時代に
          入っても、このような原始的な城砦が現役で使用されていたのかという点です。一応、
          豊後では「因尾砦」と呼ばれるただの洞窟の砦が島津軍の侵攻を阻んだという実例も
          あるので、ありえないとまではいえませんが。

           
 牧の原橋のたもとに建つ宇都宮一族之碑。
弓三丁の岩。 
 表門。
門跡か。 
 同上。
城址標柱。 
 中心的な場所か。
 祠と巨大な岩。
裏門を望む。 
 番人の穴。
裏門の絶壁のようす。 
 裏門のようす。
谷に散在する炭焼窯跡。 


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