桔梗城(ききょう)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 吉川宗方
 遺構  : 曲輪、堀
 交通  : JR越後線・弥彦線吉田駅からバスに乗り、
      「田村歯科医院前」下車徒歩20分


       <沿革>
           天喜年間(1053〜58)に、源頼光の一族とされる弥彦庄司吉川宗方が築いたと伝わる。
          当時、城山一帯には桔梗が咲き乱れ、桔梗ヶ岳と呼ばれていたといわれる。
           康平六年(1063)には、奥六郡の俘囚長・安倍貞任の残党とされる黒鳥兵衛が越後で
          狼藉をはたらき、弥彦へも攻め込んできたが桔梗城で撃退したと伝えられる。しかし、黒鳥
          兵衛は伝説上の人物で後世の創作とされる。吉川宗方についても史料上での実在が確認
          できず、桔梗城は弥彦神社が防衛拠点として築いたものとする見方も強い。
           その後、桔梗城の動静はいったん途絶えるが、永正年間(1504〜21)に大須賀氏が再興
          したとされる。大須賀氏の出自は定かでなく、長尾景虎(上杉謙信)の父・長尾為景に叛旗
          翻して滅ぼされた。
           天文十五年(1546)、黒滝城主黒田秀忠が景虎に背いて攻め滅ぼされると、山岸光祐が
          黒滝城を任され、桔梗城主も兼任した。黒滝城と桔梗城が光祐に同時に与えられたのか、
          先に桔梗城主だったところ、加えて黒滝城も預けられたのかは定かでない。
           光祐の跡は子の秀能が継いだが、慶長三年(1598)に上杉家が会津へ移されると、秀能
          もこれに従い、桔梗城は廃城となった。


       <手記>
           弥彦神社および門前町は、弥彦山や桔梗城のある丘陵、そして御殿山に囲まれた盆地の
          ような場所にあります。つまり、外部からは窺えないような地形になっていて、桔梗城はその
          外側を向いた峰上に位置しています。少なくとも当初の築城目的が、弥彦神社防衛にあった
          ことはほぼ間違いないでしょう。
           城跡は弥彦城山森林公園の一部になっていて、遊歩道が通じています。私が訪れたのは
          5月の下旬で、下草が伸び始めるころでしたが、主城域背後の堀切や本丸および腰曲輪まで
          は問題なく見学できたものの、二の丸をはじめそれ以外の箇所はすでに藪と化してしまって
          入れませんでした。
           また、主城域と弥彦総合文化会館の間に城山平という小ピークがあり、造作は曖昧ながら
          小さめの上段と広めの下段から成る2段の削平地が認められます。主城域の曲輪はいずれも
          あまり広くないため、必要な施設などをこちらに増設した可能性もあると思われます。
           全体として、桔梗城はあまり規模が大きいとはいえません。逆に、黒滝城は上杉家の家臣が
          維持するには巨大にすぎます。私見としては、山岸氏の居城は桔梗城で、黒滝城については
          上杉家直轄の拠点城を預けられているという位置づけだったのではないかと感じます。

           
 桔梗城跡を望む。背後は弥彦山。
 両山の間に弥彦神社があります。
主城域背後の堀切。 
 本丸の切岸。
本丸と二の丸の間の堀切。 
 二の丸のようす。
 冬場なら行けるかも…。
本丸下の腰曲輪。 
 本丸のようす。
同上。 
 城山平上段の削平地。
同じく下段の削平地。 
 おまけ:弥彦神社


BACK