黒滝城(くろたき)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 小国氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、切岸、井戸
 交通  : JR越後線・弥彦線吉田駅からバスに乗り、
      「さくらの湯」下車徒歩50分


       <沿革>
           築城の経緯は定かでないが、鎌倉時代に小国氏一族が在城していたと伝わる。小国氏は
          刈羽郡小国保を本貫とし、源頼光の後裔・頼連に始まるとされる。南北朝時代初期には小国
          政光が弥彦山の北の天神山城を拠点としていたことから、実際は天神山城築城と前後して、
          鎌倉末〜南北朝初めごろに築かれたものと推測される。
           永正年間(1504〜21)には、経緯は不明だが桔梗城とともに大須賀氏が城主であったと
          される。大須賀氏が越後守護代長尾為景に背いて滅ぼされると、守護上杉氏家臣黒田秀忠
          が黒滝城主となった。
           天文十四年(1545)、為景の跡を継いだ長男晴景の器量を疑問視した秀忠は、兵を挙げて
          長尾氏の居城春日山城へ攻め入り、晴景の弟の景康と景房を殺害したとされる。このとき、
          末弟の景虎(後の上杉謙信)は床下に隠れて難を逃れ、傅役の金津新兵衛に救出されたと
          伝わる。ただし、当時の景虎は栃尾城主であり、前年に周辺豪族から攻められる(栃尾城の
          戦い)など、現地で対応に当たっていた。また、黒滝城から直線で80km離れた春日山城まで
          難なく攻め入ることができたのか、景康・景房は実在したのかなど、疑問点も多い。
           いずれにせよ、晴景に対して反乱を起こした秀忠は黒滝城に籠城する構えを見せた。晴景
          は景虎に討伐を命じ、城を攻められた秀忠は降伏した。翌天文十五年(1546)二月に秀忠は
          再び謀叛したが、やはり景虎に黒滝城を攻め落とされ、今度は一族とともに自刃した。
           その後は竹俣氏が一時在城し、景虎が晴景の跡を継いだ後に、山岸出雲守光祐が城主と
          なった。天正六年(1578)の御館の乱では、光祐・秀能父子は上杉景虎を支持し、上杉景虎
          方の三条城主神余親綱に黒滝城を攻撃された。同乱が景勝方の勝利となった後も、新発田
          重家の乱などにおける上杉氏の拠点として重視され、山岸氏に加えて村山慶綱が城将として
          一時派遣された。
           慶長三年(1598)に上杉家が会津へ転封となると、山岸氏もこれに従い、黒滝城は廃城と
          なった。


       <手記>
           弥彦山脈に連なる国上山のひとつ北側にせり出した峰が黒滝城跡です。東麓から、背後の
          尾根まで一部すれ違いが困難ながら道路が通じていて、駐車スペースもあります。黒滝城址
          森林公園として、城内をぐるっと回る遊歩道も整備されており、山容の険しさに比べて訪城は
          難しくないといえるでしょう。出入口は2か所あり、尾根筋から入って二ノ曲輪下から出るのが
          おすすめです。
           尾根筋へ上がってまもなく大堀切があり、その先の2〜3条の堀切を経ると、主郭にあたる
          天神曲輪(実城)に至ります。前方は、2つの尾根とその間の谷筋に曲輪群が展開する構造
          で、とくに天神曲輪・二ノ曲輪・桜井の曲輪と続く3段は、切岸がとりわけ高く急峻です。これら
          3段の曲輪だけで十分な防御力が感じられ、おそらく黒田氏時代の城域はここまでだったの
          ではないかと推察されます。黒滝城の背後の稜線にも、剣ヶ峰砦や門口砦といった城砦群が
          あったようで山道も付いていますが、時間の都合と雨が降ってきたこともあり、今回は断念を
          しました。
           黒滝城の特徴として、まず井戸の多さが挙げられるでしょう。もちろん、籠城するにあたって
          水源の確保は死活問題ですが、個人的な直感としては、雨の後などに切岸面が崩れるのを
          防ぐために、地下水を抜く目的もあったのではないかと考えます。
           もう1つ特徴として挙げられるのが、2又の尾根先に、大蓮寺曲輪と吉傳寺曲輪という同名の
          寺院があったことにちなむとされる曲輪がある点です。このことから、国上山や弥彦山と同じく、
          黒滝城の城山も古くは信仰の対象であったのではないかと想像できます。
           全体として、黒滝城はとても規模の大きな城です。謙信・景勝期には山岸氏が城主でしたが、
          上杉氏の一家臣で維持・守備できるものとは思えません。山岸氏は桔梗城主を兼ねていたと
          されていますが、実際には桔梗城が居城で、黒滝城については上杉氏(長尾氏)が直轄管理
          および拡張・改修したものを預かっていた形なのではないかと推察しています。

           
 黒滝城跡遠望(画面中央)。
 薄の後ろの峰は剣ヶ峰砦・門口砦跡。
背後尾根筋の登山口。 
 尾根筋の大堀切。
大堀切脇の腰曲輪と切岸。 
 尾根筋の堀切跡。
天神曲輪(実城)背後の堀切。 
 主郭にあたる天神曲輪と櫓台状土塁。
二ノ曲輪。 
 二ノ曲輪から桜井の曲輪を見下ろす。
二ノ曲輪から天神曲輪を望む。 
 桜井の曲輪。
桜井の井戸跡。 
 搦手道の虎口。
大蓮寺曲輪方面の曲輪群を見下ろす。 
 大蓮寺曲輪。
大蓮寺曲輪からの眺望。 
 桜清水の井戸跡。
谷筋の曲輪群。 
 鷲沢の井戸跡。
吉傳寺曲輪跡。 
 吉傳寺曲輪の尾根の腰曲輪。
同上。 
 同上。
 切岸の上は天神曲輪。


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