喜岡城(きおか) | |
別称 : 高松城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 舟木頼重 | |
遺構 : 削平地 | |
交通 : JR高徳線屋島駅または琴電古高松駅徒歩7分 | |
<沿革> 建武二年(1335)、讃岐守護となった舟木頼重によって築かれたとされる。頼重は美濃 源氏の土岐光定の子で、喜岡城周辺の地名をとって高松氏を称した。同年、足利尊氏が 建武新政府に対して挙兵すると、これに呼応した細川定禅が喜岡へ攻め寄せた。頼重は 城を出て迎え撃ったが、讃岐の諸豪族を糾合した細川勢に敗れた。頼重は戦死したとも、 生きて落ち延びたともいわれる。また、このとき頼重の老父一族14人、郎党30人余が討ち 死にしたとされるが、土岐光定はすでにこの世になく、頼重自身も当時60歳前後とみられ ることから、「老父」が誰を指すのかは定かでない。 その後、経緯は不明だが戦国時代末期までに、頼重の子孫を称する高松左馬助頼邑 が喜岡城主となった。頼邑は当初香西氏に属していたが、天正十年(1582)に主君香西 佳清が長宗我部元親に屈するまでの間に、長宗我部氏に臣従したものとみられる。 天正十一年(1583)、虎丸城の十河存保の要請に応じた羽柴秀吉が、仙石秀久を救援 に派遣した。秀久は2千の兵を率い、小豆島を経由して讃岐に上陸し喜岡城を攻めたが、 頼邑の守りは堅く落城しなかった。 天正十三年(1585)、秀吉が改めて四国攻略の兵を起こすと、宇喜多秀家を大将とする 2万3千の大軍が屋島に上陸した。このとき、喜岡城には頼邑のほか、香西氏が派遣した 唐人弾正・片山志摩らの援軍を合わせてわずか200名が籠っていた。宇喜多勢の猛攻を 前に奮戦するも、衆寡敵せず全員が討ち死にしたとされる。 これにより、喜岡城は廃城となったとみられる。なお、天正十八年(1590)に生駒親正が 箆原に玉藻城を築くと、これに高松の地名を援用した。以後、喜岡周辺は古高松と呼ば れるようになった。 <手記> 喜岡城跡は現在、公園や神社、喜岡時境内となっています。遺構ははっきりはしません が、丘が上下2段に削平されていて、上段が神社、下段が喜岡寺となっています。周囲は ぐるり堀だったとみられ、最低でも2つの曲輪から成る丘城という概要は、容易に把握でき ます。 丘の南東麓に石碑と説明板があるほか、喜岡寺門前にも石碑があります。その3つとも が、喜岡城ではなく「高松城」の名を前面に打ち出しています。ここが、今日の高松という 地名のはじまりの地であるというアピールなのでしょうが、そこまでこだわらなくても…とも 感じました^^; また、喜岡寺には討ち死にした高松頼邑・唐人弾正・片山志摩の3人の墓があるという ことです。しかしながら、喜岡寺にはとくに案内はなく、境内周囲には墓石が雑然と並んで いるばかりで、結局どれなのか分かりませんでした。 |
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南東麓の石碑と説明板。 | |
頂上の神社。本丸跡か。 | |
神社境内のようす。 | |
喜岡寺。二の丸か。 | |
喜岡寺門前の石碑。 | |
喜岡寺境内の丘が2段になっているようす。 | |
北から喜岡城跡を望む。 手前公園は堀跡か。 |