木曽義仲館(きそよしなか)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 木曽義仲
 遺構  : なし
 交通  : JR中央本線宮ノ越駅徒歩30分


       <沿革>
           久寿二年(1155)の大蔵合戦で討たれた源義賢の遺児駒王丸は、斎藤実盛の計らいに
          よって信濃の豪族中原兼遠に預けられた。駒王丸は兼遠のもとで元服し、木曽次郎義仲
          と名乗った。義仲は、時期は不明だが、兼遠のの北東に居館を構えた。
           治承四年(1180)、義仲はこの館で平家打倒を掲げて挙兵したとされるが、旗揚げの地
          については木曽谷ではないとする説も強く、はっきりしない。その後、義仲は入京を果たす
          ものの、中央での立ち回りに失敗し、後白河法皇や源頼朝と対立した。寿永三年(1184)、
          義仲は木曽の地を二度と踏むことなく、近江国粟津で討ち死にした。義仲の館もそのまま
          廃されたものと推測される。


       <手記>
           木曽義仲館は、木曽川が山吹山の険を抜けて平野部に出る喉口部の河岸上に位置して
          います。館跡には旗挙八幡神社があり、中山道を挟んだはす向かいには、義仲が勧請した
          と伝わる南宮神社が鎮座しています。
           館としての遺構はありませんが、立派な石碑や義仲ゆかりとされる樹齢八百年の大欅が
          あります。南方には宮ノ越宿の景色が広がっています。宮ノ越は、木曽谷での有数の平地
          面積をもつ地域で、古くから重要な土地であったと推測されます。
           館跡には、義仲元服・旗挙の地と大々的に書かれていますが、私はどちらとも疑わしい
          と考えています。義仲がここで元服したとすれば、もともとこの館は養父の中原兼遠のもの
          であったはずです。ですが、兼遠の館は別に存在しており、ここにもう1つ館を構える理由が
          あるようには思えません。「木曽」の苗字を名乗って立家した義仲が、新しく居館を構えたと
          みる方が、自然であるように思います。
           また、義仲挙兵の地が木曽ではないという説は、すでに幾人かの歴史家によってなされ
          ています。私の疑問は、そのような歴史家のように古文書を紐解いて得たものとは異なる
          のですが、直感として、木曽谷で挙兵したところで大した兵は集まらないだろうと推測して
          います。現地説明板には1千余騎とありますが、木曽谷で千人の兵を集めるのはおそらく
          相当困難であると思われます。さらに、兼遠は木曽谷に住んでいましたが、彼の息子たち
          は、信濃国筑摩郡や美濃国恵那郡など、ことごとく木曽谷の外に居を構えています。養父
          兼遠自身が、木曽の外へ開発の方向を向けているなか、義仲ひとり木曽谷に籠って挙兵
          したとは考えづらく、おそらく信州の諸豪族を糾合しやすい中信や東信で旗挙げの宣言を
          したのではないかと推測しています。

           
 館跡石碑。
旗挙八幡神社。 
 樹齢八百年の大欅。
館跡越しに宮ノ越方面を望む。 


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