北新波砦(きたあらなみ)
付満勝寺砦(まんしょうじ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 長野氏か
 遺構  : 土塁、空堀、虎口跡
 交通  : JR上越線高崎駅よりバス
       「長野小前」バス停下車


       <沿革>
           長野氏関連の武士団の館跡と推測されているが、詳細は不明。発掘調査の結果、15世紀後半に築か
          れたものとされている。
           永禄九年(1566)の箕輪城の戦いで長野氏が滅亡した際、主君長野業盛(氏業)に殉じた家臣の中に
          新波新左衛門という人物がいる。北新波砦と何らかの関連があるものとも推測されるが、詳細は不明。
           北新波砦の南東に隣接する満勝寺も、周囲を土塁と堀で囲い城塞化していた。満勝寺は、長野氏滅亡
          以前は寺ノ内館の敷地内にあったと伝承されてきたが、寺ノ内館跡の発掘調査の結果、寺院の存在は
          確認されなかった。



       <手記>
           北新波砦は、文献上には全く現れないBC級の城館でありながら、二度の発掘調査とその後の公園整備
          化によって、中世の一般武士の館のようすをうかがい知る貴重な史跡公園となっています。単郭方形の館
          の内部は広い芝生になっていて、近所の子供連れの格好の遊び場となっているようです。
           砦とはいっても単郭方形の館のため、防御能力はさほど高くなかったと思われます。ただ、南側の虎口の
          西側に凸出部が設けられ、横矢がかかるようになっています。隣接する満勝寺砦も、この虎口の防御を補う
          効果があったものと考えられます。
           満勝寺砦については、寺の北側に一部土塁と堀跡が残り、石碑が建っていますが、寺は史跡の保存には
          興味がないようで、非常に見つけづらい状態です。満勝寺については、長野氏滅亡後に現地に移転したと
          の伝承があります。しかし、長野氏滅亡後にわざわざ武田氏が北新波砦の隣に寺をもってきて城塞化させ
          るような理由は見当たりません。
           ただ、現地の地理を鑑みるに、両砦は同時に築かれたとみるには不自然な位置関係にあります。また寺
          が先に城塞化して、後に隣に城館が築かれたというのも考えにくいでしょう。私見としては、もともと北新波
          砦も寺も両方存在し、何らかの軍事的緊張が高まった際に、寺の周囲に土塁を掻き上げ城塞化したと考え
          た方が自然に思われます。


           
 北新波砦史跡公園。
北新波砦の虎口。 
 満勝寺砦北面の土塁と堀跡。


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