クロップ城
( Burg Klopp
 別称  : なし
 分類  : 山城(Höhenburg)
 築城者: ジークフリート3世・フォン・エップシュタインか
 交通  : ビンゲン駅徒歩15分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           1277年に初めて城の記述が史料に現れるが、1240年までにはマインツ大司教ジークフリート
          3世・フォン・エップシュタインによって何らかの施設が建設されていたとされる。
           1301年、クロップ城はラインラントの諸選帝侯と対立した神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世に
          よって攻められた。このとき、包囲用に二重の壁と塔が建設され、1か月半に及ぶ包囲戦の末、
          降伏を余儀なくされた。翌1302年に和議が結ばれ、城と城下町は5年間皇帝の抵当として預け
          られることになった。その間の預かり将として、ゴットフリート・フォン・ホーエンローエ=ブラウン
          エックが派遣された。1308年には、約定どおり城はマインツ大司教に返還された。
           1438年にマインツ司教座聖堂参事会に売却され、拡張が加えられた。ただし、城砦というより
          は参事官の居所および役所、あるいは周辺の自立性の高い諸都市への権威的圧力としての
          色合いが濃くなっていった。
           17世紀前半の三十年戦争によって荒廃したが、戦後に復興された。1689年には、プファルツ
          継承戦争によって他のライン渓谷の諸城と同様、フランス軍に爆破された。1712年ないし13年
          には、スペイン継承戦争で他国の軍隊に使用されることを防ぐため、マインツによって再び爆破
          された。
           1800年ごろ、ビンゲンの公証人ヘルマン・ファーバーが廃墟を買い取った。1840年には、ギュ
          スタ-ヴ・ヨハン・フォン・メングデンが購入し、ビザンチン様式で再建しようとしたが、着手はされ
          ないまま、1853年にケルンの商人ルートヴィヒ・マリア・クローンに売却された。その後、1880年
          にはケルンの上級公務員マックス・アラートに、1889年にはベルリンの銀行家ヨーゼフ・ローゼン
          タールの手に渡った。
           1897年に至ってビンゲン市の所有に帰し、市長の役宅として利用されるようになった。第二次
          世界大戦で著しく損傷したものの、現在も市の行政機関として使われている。


       <手記>
           クロップ城は、ライン川とナーエ川の合流点に臨む丘の上に位置しています。ライン川対岸の
          エーレンフェルス城およびその間のねずみの塔とともに船からの徴税を担っていたものとされて
          います。マインツ方面からライン渓谷クルーズの船に乗ると、お城らしいフォルムをもつものとして
          は最初に現れるので、印象に残りやすい城跡でしょう。ただし、今日目にする小奇麗な建物は
          市の役場の一部で、城の遺構というわけではないうえに、見学はできないようです。他方で主塔
          が公開されていて、またレストランも併設されているそうです。
 
 


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