高水寺城(こうすいじ) | |
別称 : 郡山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 斯波氏 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、空堀、削平地など | |
交通 : 東北自動車道紫波ICより車で10分 | |
<沿革> 高水寺城は、足利幕府三管領の1つ斯波氏の発祥の地であり、累代の居城であった。斯波氏は、鎌倉 幕府の有力御家人足利泰氏の長男家氏が陸奥国斯波郡(現在の紫波郡)に封じられたことにはじまる。 斯波氏を名乗りはじめた時期については、一説に室町時代に入ってからともいわれるが、実際にはよく 分かっていない。足利宗家の家督は家氏の弟頼氏が継ぎ、頼氏の子孫に足利尊氏がある。 家氏の曾孫高経とその弟家兼は、尊氏の挙兵に同調し、室町幕府の創建に尽力した。管領を歴任して 中央に活躍した斯波氏は武衛家と呼ばれ、高経の子義将にはじまる。これに対して高水寺の斯波氏は、 同じく高経の子で義将の兄である家長、もしくは家兼にはじまるといわれる。ちなみに、家兼は最上氏や 大崎氏の祖である。ただし、家兼以降の斯波氏に関しては、系譜が曖昧である。 高水寺城と斯波氏が歴史の表舞台に登場するのは、斯波詮高からである。詮高までの系譜はやはり 明らかでない。詮高は謀略に長けていたといわれ、天文九年(1540)頃に、滴石(現在の雫石)に勢力を 張っていた戸沢氏を出羽仙北へ駆逐した。獲得した滴石と猪去に次男詮貞・三男詮義を入れ、それぞれ 滴石御所・猪去御所と尊称された。こうして高水寺斯波氏は全盛を迎えるが、同十九年(1549)に詮高が 死ぬと、孫の詮真の時代には北から南部氏の侵攻を受け、徐々に衰退を始めた。詮真は、ついに南部 晴政の攻撃に耐え切れず、晴政の家臣の子を養子に迎えるという屈辱的な条件で和睦した。 天正十年(1582)に晴政が世を去ると、跡目を巡って内訌が生じ、その隙をついて詮真の子詮直が再び 高水寺城を中心に独立を果たした。しかし、詮直はその後政治に関心を示さず、家臣からは晴政の跡を 継いだ南部信直に寝返る者が相次いだ。同十六年(1588)、信直の攻撃によって高水寺城は落ち、ここに 名族高水寺斯波氏は滅んだ。 信直は、高水寺城を郡山城と改称し、中野康実を城代として置いた。盛岡築城にあたっては、当主南部 利直が完成までの暫時の居城とした。城下町は北上川の河港として栄えた。城は、寛文七年(1667)に 廃城となった。 <手記> 北上川に面した独立丘上に築かれた城です。特徴的な完全独立丘に築かれた名族の居城であるにも かかわらず、ほとんど戦闘経験がなく、築城の経緯も不明な城です。築城時期については、地形上から 考えて南北朝騒乱期ではないかと思われます。 現在城跡は城山公園として整備されています。この公園は、至るところに桜が植えられ、桜の名所とされ ているようで、駐車場も4ヶ所に分けて広く設置されています。そのため、全体的に整地されていて、残念 ながらどこまでが城の遺構で、どこからが公園化に伴う平場なのか判別が困難です。確実に当時の遺構 といえるのは、本丸のみといっても過言ではありません。ただし、注意深く歩けば、随所に堀跡や腰曲輪と 思われる箇所がそこかしこに見られます。総じて考えるに、本丸を中心に南東・北東・西側に幾段もの腰曲 輪を連ねた縄張りであったと推測されます。縄張り上の技巧としては、それほど凝ったものではなく単純な 構造であったと思われます。おそらくは、岐阜城や観音寺城などと同じく、戦闘用という以上に名族斯波氏 の権威を見せ付けるデモンストレーション的意味合いの強い城だったのだと思います。 ちなみに、城跡から程近い勝源院にある逆カシワは、国の天然記念物に早くから指定されていたほどの 名木で、非常に見ごたえがあります。城に興味が無い方でも、付近を通った際には、寄ってみると良いと思 います。 |
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本丸の城址碑。 | |
本丸の土塁。 | |
土塁と腰曲輪。 | |
土塁と空堀跡か。 |