観音寺城(かんのんじ)
 別称  : 佐々木城
 分類  : 山城
 築城者: 六角氏頼か
 遺構  : 石垣、曲輪跡、土塁など
 交通  : JR東海道本線安土駅徒歩60分


       <沿革>
           『太平記』に、六角氏頼が南朝側の攻撃に備えて建武二年(1335)に観音寺城に篭もった
          とする記述がある。これが観音寺城に関する初出とされるが、このときの城はすでにあった
          観音正寺を転用したものに過ぎなかったとみられている。
           応仁元年(1467)の応仁の乱までには、六角氏の居城となっていたことが明らかとなって
          いるが、正確な移転の時期については詳らかでない。それまでの居城は観音寺山西麓の
          金剛寺城であった。
           応仁二年(1468)から翌文明元年(1469)にかけて、観音寺城は京極持清・六角政堯らに
          攻められ、3度の攻防戦を展開した。このうち前2回は、城主六角高頼が京に出陣中で不在
          だったこともあり、防ぎきれず落城している。第三次観音寺城の戦いでは、高頼が焼け落ち
          ていた城を修築し、ついに京極軍を退けるにいたった。
           延徳元年(1489)、幕府と対立した高頼は、将軍足利義尚による親征を受け(鈎の陣)、
          城を放棄して甲賀山中に潜んだ。甲賀でゲリラ戦を展開しているうちに義尚は鈎で陣没し、
          高頼は観音寺城へ復帰した。義尚の跡を継いだ義材(後の義稙)も同三年(1491)に六角
          征伐へ赴くが、このときも高頼は城を捨てて甲賀・伊勢へと逃れ、後に近江へ帰国している。
          文亀二年(1502)には、守護代も務めた同族の伊庭氏が反乱を起こしたが、このときも城を
          出て一時避難し、和議を結んだ後に城へ戻っている。
           高頼の子定頼のころに、観音寺城は大改修を受け、現在に残る骨格が完成したとみられ
          ている。定頼は政治手腕に長け、六角氏の最盛期を築き上げた。定頼は城内に家臣団の
          屋敷群を形成したり、城下に楽市を布くなど、後に安土城に取り入れられた特徴を城に備え
          させ、政治・経済の一大中心地とした。
           定頼の子義賢が野良田の戦いで浅井氏に大敗すると、六角氏は衰退に向かった。永禄
          六年(1563)、義賢の子義治は、観音寺城内で宿老後藤賢豊父子を殺害した。これに対し、
          六角家臣団は義賢・義治父子を観音寺城から追い出す挙にでた(観音寺騒動)。2人は、
          重臣蒲生定秀・賢秀父子の仲介により城へ戻ることができたが、この復帰に際し六角氏の
          権限を制限する「六角氏式目」の承認が条件とされた。
           永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の軍勢を興し、六角氏に協力を
          求めると、六角父子はこれを拒絶した。六角氏は観音寺城と和田山城箕作城など周辺の
          支城に兵を配置して、信長軍を迎え撃つ態勢をとった。六角氏の戦略は、支城群で織田勢
          を引き止め、三好氏の援軍を待って反撃に転ずるものであったと考えられている。しかし、
          織田軍は一晩で箕作城を落としてしまい、それを知った和田山城の兵も逃散してしまった。
          観音寺城向かいの箕作城が落ちたことで六角父子は戦意を失ったのか、父祖と同じく甲賀
          へ落ち延びていった。しかし、高頼のころとは異なり、この後六角氏が観音寺城へ返り咲く
          ことはなかった。
           観音寺城の正確な廃城時期は分かっていない。元亀二年(1571)に観音正寺が全焼した
          とされていることから、遅くともこのときまでには廃されていたものと考えられる。


       <手記>
           観音寺城へは、今まで3回ほど訪れたことがあります。ただ、1度目はカメラが壊れていて
          写真が撮れず、2度目は下から登ったのですが、夏の猛暑で体に異変を感じ、途中で断念
          しました。3度目の正直で、ようやくアップできるだけの写真が揃ったという次第です。
           観音寺城のある繖山(きぬがさやま)は、周囲でも際だって目立つ山です。六角氏の居城
          として壮大な規模を誇っていたことはもとより、集合住宅のような千余ともいわれる曲輪や
          山頂の土塁線など、多くの謎ともいえる特徴をもった城です。こうした特徴に関して、長らく
          議論が続けられていますが、それについては別コーナー(徒然記)にて論考を設けている
          ので、そちらを参考にしていただければと思います。
           観音寺城の本丸から伝池田丸あたりを歩いていて感じるのは、城というより寺じゃないの
          か、というような石垣や曲輪の形態です。巨石を列した勾配のない石垣、整然とした石段と
          穏やかな虎口。まるで京都高雄の高山寺あたりを歩いているような感覚を覚えました。
           観音正寺の茶店(今はなくなってしまったようです)の方から、尾根先端にある池田丸の
          南東隅から大手道が伸びていることを聞いて、以前降りてみたことがあります。冬口だった
          ので藪は問題ありませんでしたが、途中で踏み分け道が完全になくなってしまい、戻ろうと
          上を見あげると、自分が来た道も分からなくなってしまったことがあります。足軽のように、
          がむしゃらに土塁を登ってなんとか戻れましたが、危うく遭難するところでした。
           観音寺城を訪れておそらく誰もが感じると思われるのが、観音正寺の豪華絢爛さです。
          観音正寺は、平成五年(1993)の火事で本堂を消失したそうですが、その復興活動により、
          むしろ以前より立派な寺に仕上がっています。なんというか、とにかくゴージャスです。何の
          補修もされず、荒れるままに放置されている寺域以外の城址部分と比べると、悲しくなって
          しまいます。安土城のハ見寺しかり、寺社仏閣の自己愛ぶりには舌を巻くばかりです。ある
          意味、寺社は資本主義の鑑といえるのではないでしょうか。


           
 観音寺城址(繖山)遠望。
本丸のようす。  
 伝平井丸の虎口。
  伝池田丸のようす。 
 山頂の土塁線。
山麓の居館跡の石垣。 


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