小泉城(こいずみ) | |
別称 : 西院城、西院小泉城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 小泉氏か | |
遺構 : なし | |
交通 : 京福電鉄・阪急京都線西院駅徒歩5分 | |
<沿革> 天文十五〜十八年(1546〜49)の京洛の様子を描いたとされる『上杉本洛中洛外図屏風』に、 「さいのしろ」として描かれている。山科言継の『言継卿記』には、同十九年(1550)に細川右京 (晴元)が西院小泉城を包囲して攻めたことが記されている。晴元は、同十八年から三好長慶と 対立しており、小泉城は三好方の京の拠点として機能していたものと考えられる。 天文二十一年(1552)、城将小泉秀清は小泉城に火を放ち、将軍足利義輝の籠る霊山城に 向かった。翌二十二年(1553)には長慶と義輝の関係が悪化し、三好方についた秀清は足利方 の攻撃に備え、小泉城を修築したとみられている。同年七月には義輝の軍勢が小泉城を囲み、 大規模な攻城戦が展開された。このときは、攻城方が手間取っている間に三好方の救援が駆け つけたため、足利勢は敗退したとされる。 長慶死後、秀清は松永久秀に従ったと思われる。永禄九年(1566)、小泉城は久秀と対立する 三好三人衆によって攻められ、秀清は守兵200人とともに立て籠もったが、敗れて大津へと落ち 延びたとされる。 『言継卿記』の永禄十一年(1568)九月二十四日の項には、「西院小泉島介 九条和久壱岐守 等城早旦自焼 南方へ加わる」とある。この前日には、足利義昭を奉じた織田信長が大津に到達 している。小泉島介が秀清と同一人物なのか、あるいは一族の誰かであるかは明らかでない。 ただ、「西院」「自焼」とあることから、小泉氏がこの時点まで小泉城にあり、城に自ら火を放って 南方へ逃れたことが読み取れる。これ以降、小泉城が再利用されたのかは不明である。 <手記> 小泉城は現在の四条通の北、佐井通の西あたりにあったと思われ、丹波ヘ向かう街道を押さ える位置にあります。比定地の一角に春日神社が鎮座していて、城はこれに隣接するか神社を 取り込んだものと考えられます。遺構をはじめ、周辺に城跡を示すようなものは何もありません。 春日神社南西に艮町・巽町・坤町・乾町の町名が残り、これを城の四隅に因むものとの推測も あります。ただ、これらの小字の中心は四条通となるため、四条の北側にあったとされる屏風の 図示とは異なります。また艮・巽・坤・乾の字が入った町名は京洛にはわりと散見され、必ずしも 城館の位置関係に関するものではないと思われます。これを城に因んだものとするのは早計で しょう。 ちなみに、小泉城は洛中唯一の中世城郭とされています(その時々の洛中の範囲にもよるで しょうが)。 |
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小泉城址周辺現況。 |