霊山城(りょうざん)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 足利義輝
 遺構  : 曲輪跡、堀切、土橋
 交通  : 京都市バス「清水道」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           『異本年代記』の天文二十一年(1552)十月二十七日の条に、「義藤霊山御城普請始」とある。
          義藤とは、13代将軍足利義輝の初名である。この地にはもともと正法寺があったが、同十九年
          (1550)に破却されていた。正法寺は初め霊山寺と称しており、霊山の名はこの寺にちなむもの
          であるが、城名に対し寺名の読みは「りょうぜん」である。
           この年の初め、義藤は三好長慶と和睦し近江から京へ戻っていた。しかし、将軍とは名ばかり
          の傀儡だったため、長慶への備えとして霊山城を築いたものと思われる。翌二十二年(1553)
          七月、義藤は三好方の小泉城を攻撃したが、攻城に手間取っているうちに後詰が到着したため
          撤退した。翌八月一日には、長慶勢2万5千の大軍が霊山城を攻撃した。将軍家家臣松田監物
          や近江の土豪磯谷氏、醍醐三宝院門徒らが守っていたが、城は1日で落ち、監物は戦死したと
          される。このとき義藤は北野の右近馬場城にあったとみられているが、霊山落城の報に触れて
          再び近江朽木へ落ちていった。
           霊山城はそのまま廃城になったものと推測される。


       <手記>
           霊山城跡は高台寺裏手の峰上にあります。地図上では、西麓から尾根筋に登る道があるよう
          に書かれていますが、こちらには墓地があり、なんでも坂本竜馬の墓があるとかで墓地全体が
          フェンスで囲われているうえに有料となっています。おかげでフェンスに阻まれて山肌に取りつく
          ことができず、墓には興味のない私にとっては入園料を払っただけの手痛い出費となってしまい
          ました。
           城へ登るには、南西麓の正法寺の北裏手から斜面をよじ登ってくだんの尾根道を目指すより
          ほかありません。道に出てしまえば、あとは多少の藪を抜けてまもなく城跡へたどり着けます。
          とくに城跡を示すものはなく、山腹には曲輪跡ともとれる小さな平場がいくつか見受けられます
          が、顕彰碑などが建てられているため、城の遺構かどうか判別ができません。ただ、主郭とその
          背後の2条の堀切は、かなりしっかりと残っています。
           義輝が長慶に対抗する拠点として築いた城砦ですが、不思議なことにいざ本番の合戦では、
          義輝は霊山城ではなく右近馬場城に拠ったとされています。あるいは、粟田口と汁谷口を南北
          に押さえる霊山城で近江の六角氏と連絡し、三好勢を挟撃する作戦だったのかもしれません。
          果たせるかな、霊山城が落ちて大津方面との連絡が絶たれると、義輝は朽木谷へと落ち延び
          ています。

           
 霊山城址を望む。
主郭のようす。 
 主郭背後の堀切と土塁。
主郭背後2条目の堀切と土橋。 
 主郭南側斜面。曲輪が続いているようないないような…。


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