木浜城(このはま)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 進藤氏
 遺構  : 堀跡
 交通  : JR東海道本線守山駅よりバス
       「木浜口」バス停下車徒歩10分


       <沿革>
           六角佐々木氏重臣進藤氏の居城とされる。進藤氏は、同じく六角氏重臣の後藤氏と並んで
          「佐々木の両藤」と称される重鎮であった。その出自は明らかでないが、代々山城守を名乗り、
          長久−貞治−賢盛と続いたとされる。とくに貞治は、外交面で六角氏を支えた人物として知ら
          れている。
           『近江名跡案内記』によれば、永禄八年(1565)に、原因は不明だが城は焼失したとされる。
          また『明智軍記』には、永禄十一年(1568)の織田信長の上洛に際して「進藤山城守秀成」が
          後藤喜三郎頼基とともに六角氏に背き、木浜城へ籠ったとある。ただし、進藤秀成なる人物
          は、現在のところ一次史料からは確認されていない。『明智軍記』自体、江戸時代に成立した
          軍記物であるうえ、今日では疑問視されている六角義秀当主説を採っているなど、どこまでが
          事実であるかについては疑いが残る。
           元亀三年(1572)には、大原賢永の家臣が木浜城を焼こうとしたが、発見されて野洲川原
          で火刑に処されたと伝わる。賢永は六角義賢の子で、義賢の叔父大原高保の養子である。
          信長包囲網が敷かれ、六角氏も再興を期してゲリラ戦を展開していた時期であるため、賢永
          もこれに加わって木浜城奪取を図ったものと推測される。
           この後の木浜城については不明である。


       <手記>
           木浜城は、琵琶湖大橋がかかる琵琶湖のもっともくびれた部分にほど近い、湖畔の集落内
          にあったとされています。真正寺付近が城跡といわれていますが、正確な位置や規模などは
          明らかではありません。木浜は古来琵琶湖の湖港として栄えたところで、現在も琵琶湖大橋
          へ向かうバイパスに面した交通の要衝にあります。
           木浜は、集落全体を水路が囲っており、比定地は南西に向かって水路が突き出した部分に
          あたります。したがって、この水路を堀跡とみるのが、唯一の遺構と考えられます。真正寺を
          はじめ集落内はみっちりと建物や生活道路が詰まっているため、このほかに城跡のよすがを
          見つけるのは困難と思われます。
           100mほど東に、同じ木浜の在地領主であった大槻氏のがあります。

           
 木浜城址に比定される真正寺。
木浜集落を囲む水路。堀跡か。 


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