挙母城(ころも)
 別称  : 七州城
 分類  : 平山城
 築城者: 内藤学文
 遺構  : 石垣
 交通  : 名鉄豊田市駅または愛知環状鉄道
      新豊田駅徒歩15分


       <沿革>
           安中藩から挙母2万石へ転封となった内藤政苗は、それまで陣屋造りであった藩府
          の桜城を、本格的な近世城郭に大改築する計画を立てた。幕府から4千両を借り入れ、
          工事は実際に宝暦六年(1756)に始められたが、度重なる水害や一揆などにより遅々
          として進まなかった。
           2代藩主学文はついに桜城改築を諦め、南西の童子山での新規築城に切り替えた。
          城は天明元年(1782)に完成した。正式には挙母城と呼ばれるが、三河・尾張・美濃・
          信濃・伊賀・伊勢・近江の7国が望めるということから、「七州城」と雅称された。
           挙母藩は学文のあと5代を数えて、明治維新を迎えた。


       <手記>
           挙母城の築かれた童子山は豊田市街の平野に臨む緩やかな独立丘で、麓からは
          意外と高さがあります。城跡には豊田市美術館が建ち、現状からかつての縄張りを
          うかがうのは困難です。車は、美術館の広々とした駐車場に止められます。この駐車
          場は、かつて城の水濠も兼ねていた蓮池を埋め立てて作られたものです。
           美術館と駐車場の間には、昭和五十二年(1577)に復興された隅櫓があります。
          一見、高度経済成長期に脈絡もなく建てられた櫓のようにも思えますが、その櫓台
          石垣は、城の貴重な遺構です。この櫓が城の南西隅に当たるようで、絵図によれば
          挙母城には山上の地形を活かしているようすはなく、どちらかというと規模の大きな
          陣屋といった感じです。おそらく、幕府から融資を受けてまで築こうとした桜城を放棄
          しての新規再築城なので、凝ったことはできなかったのでしょう。
           さて、雅称の七州城ですが、近江は御在所岳や伊吹山、伊賀は布引山地を指すと
          して、山また山の向こうの信濃はさすがに見えないのでは…と感じています。さらに
          いえば、地図上で見える可能性があるのはむしろ志摩国なので、こちらと取り違えた
          のではないかな、と考えています。
           
          ※追記
           地元の方の情報によると、信濃は御嶽山が望めるそうです。ただ、そうなると飛騨
          も見えていることになるわけで、八州ないし九州見えていることになりますね。そも
          そも国境の山が見えたらその国も見えたことにするというカウント法にやや無理が
          あるように思われ…ちょっと雅称に凝り過ぎたのかな、という印象です^^;

           
 復興隅櫓。
同じく城内側から。 
 豊田市美術館。
美術館付近から豊田市街を望む。 
 美術館の北側。
 学校があったそうですが、更地になってます。
 城域内かどうかは分かりません。
蓮池を埋め立てて作られた駐車場。 
 駐車場付近から隅櫓を望む。


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