興聖寺城(こうしょうじ) | |
別称 : 清水城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 佐野国綱 | |
遺構 : 土塁、堀跡 | |
交通 : 東武佐野線吉水駅徒歩15分 | |
<沿革> 佐野氏初代佐野基綱の子国綱によって、安貞二年(1228)に築かれたと伝わる。 『下野国誌』によれば、国綱は吉水太郎を称したが、興聖寺城自体は岩崎越前守 義基のために築いたものとされる。義基は西佐野殿と呼ばれたとされ、佐野一族 と考えられているが、系譜上の位置は不明である。また、義基を木曽義仲の子で 清水(志水)冠者を名乗った源義高(義基)と同一人物とする伝説がある。義高は 源頼朝の人質として鎌倉に預けられていたが、父義仲が頼朝と対立して討たれる と、逃亡を図って誅殺された。伝説は、殺されずに落ち延びて佐野氏に匿われたと するものである。 永正年間(1504〜21)に岩崎左馬助重長が岩崎城に移り、興聖寺城には大永 元年(1521)に佐野左近将監季綱が入った。季綱は9代佐野本家当主佐野重綱 の子で、家督を継いでいたものと思われるが、今日一般に流布している系図では 重長を10代当主としている。季綱は家臣の名沼・中江川・河田・天沼・清水・今宮 の各氏を城番として置き、自身は興聖寺城にはあまり住まなかったとされるが、 どこを居城としていたかは定かでない。 その後、山田若狭守が城代となって安定をみたとされる。廃城時期については 詳らかでないが、寛永十二年(1635)に現在の興聖寺がこの地に移ったとされる ため、それまでには城館はもとより役所等としての機能も失っていたものと推察 される。 <手記> 興聖寺は佐野を南北に走る幹線道路の県道16号に面し、西には旗川が流れて いますが、要害性はほとんどみられません。吉水という地名から、周辺は開発に 適した土地だったとみられ、入植初期の佐野一族の館の1つだったものと思われ ます。 なかなか広い境内をもつ寺で、道路に削られたであろう西側を除く三辺に土塁 や堀の跡が見受けられます。ただし北と南の土塁は民家裏になるので、外から 観察するのは困難です。東辺門前に、清水城跡の標柱とほとんど読み取れない 説明板が設置されています。 かつては本丸とみられる現境内の周囲にも、北二の丸・南二の丸・三の丸など の曲輪が並んでいて、それぞれ水堀に囲まれ半ば独立していたとされています。 雰囲気的には隣の上野国の蒼海城を彷彿とさせ、あるいは律令時代の官衙か 何かが置かれていたのかもしれません。 ちなみに、上述のとおり興聖寺は廃城後に移転してきたので、興聖寺城という 呼称は存在しなかったことになります。おそらく、清水城より吉水城と言った方が 自然と思われます。 岩崎義基=源義高というのはにわかには信じがたい話で、おそらく清水冠者 を称していることと、諱が似ているということから発生したものではないかと考え られます。清水城という別名も清水冠者以外に関連性がみられず、伝説が先に あって生まれた呼び名ではないかと思われます。 また佐野左近将監季綱については、前述のとおり9代重綱の子で11代盛綱の 父の、10代佐野本家当主だったのではないかと考えています。一般に10代当主 とされている重長は岩崎を名乗っており、諸系図にあるとおりに季綱の兄だった としても、庶流の岩崎家の継承者であり本家当主ではないとみるべきでしょう。 ここで、佐野氏の居城として名高い唐沢山城は、近年では早くとも15世紀後半 ごろの築城と考えられています。記録にみられるのは盛綱の時代からですが、 あるいは季綱が初めて築いた可能性が指摘できるように思います。すなわち、 季綱が興聖寺城を居城としなかったのは、新たに唐沢山に築城して、その麓の どこかに居館を構えたからだと解することができるように思うのです。 唐沢山城の規模や輝かしい戦歴に隠れてしまっていますが、佐野氏の歴史に おいて重要な城館であるように感じました。 |
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興聖寺城跡(清水城跡)標柱と説明板。 | |
東辺の土塁および堀跡を外側から。 | |
同上。 | |
同じく境内側から。 | |
南辺の土塁を境内側から。 | |
興聖寺本堂。 |