蒼海城(おうみ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 長尾景行か
 遺構  : 曲輪跡、堀跡
 交通  : JR両毛線前橋駅よりバス
       「明神前」バス停下車


       <沿革>
           上野国守護代長尾景行によって、永享年間(1429〜1440)に築かれたとされる。それ以前に、
          鎌倉時代に千葉氏が当地に住していたともいわれるが、定かではない。景行の子忠房の代に
          白井城主白井長尾氏が分かれた。
           忠房ないしその子の代に石倉城を築いて移り、一時蒼海城は放棄された。いつ頃かは分から
          ないが、利根川の氾濫により石倉城が罹災すると、総社長尾氏は再び蒼海城に戻った。
           文明五年(1473)に上野守護代白井長尾景信が死ぬと、同氏の権力増大を恐れた山内上杉
          顕定は、守護代と上杉氏家宰の職を、景信の弟で総社長尾氏に入嗣していた長尾忠景に継承
          させた。これに不満をもった景信の子景春は、文明八年(1476)にいわゆる長尾景春の乱を起こ
          した。忠景は、主君顕定とともに乱の鎮定に転戦した。
           永正七年(1510)、越後長森原の戦いで顕定が戦死すると、ともに顕定の養子であった顕実と
          憲房の間で家督争いが生じた。当時の総社長尾氏当主顕方は、叔父の成田顕泰とともに顕実
          を支持したが、武州鉢形城で憲房勢に敗れ、上杉氏家宰の地位を失った。顕方は、このときは
          上野守護代の地位にとどまることができたと考えられているが、大永四年(1524)に北条氏綱と
          結んで謀反を起こし、敗れて守護代および総社長尾氏当主の地位も奪われた。
           総社長尾氏は、庶家の高尾長尾氏の長尾顕景が継いだ。しかし顕景も、白井長尾氏や越後
          の長尾為景と結んで上杉氏と対立した。その背景には、この頃勢力を増した箕輪衆の長野氏と
          の争いがあったと思われる。箕輪城主長野信業は、弟方業に厩橋城(現在の前橋城)を築かせ
          勢力を伸張し、逆に蒼海城は長野氏の2つの城に挟まれる格好となっていた。顕景は、上杉憲寛
          (憲房の子)の命を受けた信業に敗れ、家督を子の景孝に譲る条件で降伏した。ほどなく景孝は
          家督を弟の景房に譲ったが、この頃の総社長尾氏は見る影も無く衰退し、長野氏や、景孝の兄
          憲景が継いだ白井長尾氏の影響下にあったものと考えられている。
           永禄九年(1566)、武田信玄の侵攻により長野氏が滅ぼされると、蒼海城もまもなく落とされ、
          景房は越後の上杉謙信を頼って落ち延びた。
           その後、蒼海城が武田氏によって利用されたかは定かでない。天正十八年(1590)に北条氏
          が滅び、徳川家康が関東に移封されると、文禄元年(1592)に諏訪頼忠が総社に所領を与えら
          れた。このときの諏訪氏の居所が果たして蒼海城であったかも詳らかでない。
           関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、諏訪氏は旧領諏訪へ復し、代わって秋元長朝が1万石
          で総社藩を立藩した。長朝は、植野に新しく総社城を築いて藩府とした。新城築城の間、長朝は
          八日市場城を仮の居所としていた。総社城築城により、蒼海城は完全に歴史の幕を閉じた。


       <手記>
           蒼海城は、染谷川と牛池川に囲まれた元総社町一帯が城域(上図の実線で囲まれた辺り)と
          しています。城の縄張り図を見ると、水路のような濠で複雑に仕切られており、城というより小さな
          施設群と呼んだ方がしっくりいくように思われます。
           『日本城郭大系』では、蒼海城が古代上野国府跡を利用したものではないかと推測しています。
          確かに、蒼海城のすぐ西には国分寺・国分尼寺の跡があり、染谷川は平将門の乱において将門
          軍が上野国府を襲ったときの合戦場といわれています。ただ、推測を超えるだけの確証は、今の
          ところないようです。
           確かなことは、総社長尾氏以外には見向きもされていないこと、また当の総社長尾氏も、築城
          から間もなく石倉城への移転を図ったことから、蒼海城が余り支配の中心として適していなかった
          という点であろうと思います。
           初めから濠によって細かく区分されているということは、城や城下町の発展に大きな制約を加え
          ることになりますし、利根川の険しい河岸を利用した石倉城や厩橋城に比べて要害性も著しく劣る
          といわざるを得ません。
           さて、蒼海城の城域はかくも広大ではありますが、その遺構はほとんど見受けられません。総社
          神社の境内に大きな城の縄張り図があります。総社神社は、城の外堀にあたる牛池川の沿岸に
          あり、城の外郭にあたります。本丸周辺と思しき場所には、宮鍋神社が鎮座しています。神社の
          脇には木製の立て札があり、よ〜く見ると「蒼海城遺跡」とか何とか書いてありますが、風雨による
          ものか最早識読不可能でした。
           また総社神社裏手には、城内で使用されていたとされる「簷滴石(あまだれいし)」なる石があり
          ます。ただ何に使われていたのか、本当に当時の遺物なのかは判じかねます。


           
 総社神社境内にある城の見取り図。
総社神社。 
 宮鍋神社(本丸周辺)。
総社神社裏手にある「簷滴石(あまだれいし)」。 


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