小鷹利城(こたかり) | |
別称 : 小鷹狩城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 向氏 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR高山本線飛騨細江駅から車で15分 | |
<沿革> 建武親政期に飛騨国司となった姉小路氏の分流向氏の城とされる。向氏は向小島城を 居城とし、『飛騨国司系図』によれば向之綱を祖とするとされるが、詳しい系譜は明らかで ない。また、小鷹利城がいつ築かれたのかも不明である。 天正五年(1577)ごろ、父の死により向宣政が家督を継いだが、若年であったことから 後見の牛丸重親が下克上を画策した。これを察知した重臣の後藤重元は、宣政を母親の 故郷とされる常陸国佐竹氏のもとへ逃がし、自身は重親の追っ手を相手に奮戦して討ち 死にした。向氏は後に小鷹狩氏に改姓していることから、宣政の父のころまでには、居城 を小鷹利城に移していたとも考えられるが、確証はない。また、宣政の名は佐竹義宣の 偏諱を受けたものとみられるが、飛騨在国時の名前は不明である。このころの姉小路氏 の事跡は大半が失われており、宣政の出自についても判然としない。一説には、姉小路 高綱が宣政の実父とされ、高綱は向家と並ぶ姉小路氏三家の1つ古川家の当主姉小路 済俊の弟とされる田向重継と同一人物ともいわれる。この場合、之綱以来の向家の系統 は高綱までに絶えたことになるとみられる。ただし、済俊の父済継が同十五年(1518)に、 済俊も大永七年(1527)に齢22で没していることから考えると、不可能ではないが、高綱 はかなり高齢で宣政をもうけた計算になり、疑問が残る。 牛丸氏は、天正十年(1582)十月の八日町の戦いまでには、三木自綱(姉小路頼綱)に 属していたものとみられる。同戦いで、重親の子親綱(親正)は敵の大将である江馬輝盛 を討ち取る軍功を挙げたともいわれる。しかし、飛騨の覇権を握った自綱により、牛丸氏は 小鷹利城を逐われた。 本能寺の変後の緊張状態にあって、小鷹利城は三木氏によって大きく改修されたもの とみられている。しかし、天正十三年(1585)に羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨へ 攻め入ると、小鷹利城も落城し、そのまま廃城となったとみられている。 <手記> 小鷹利城は、北に湯峰峠を扼し、東に向家の所領の中心とみられる殿川・黒内川流域 を見下ろす山城です。東側からは比高200m以上のかなり高い山なのに対し、西の谷筋 からは比高50m程度の丘城に見えるのが特徴的です。したがって西から登るのがベター ですが、車の場合は注意が必要です。というのも、かつては主城域のすぐ麓まで田んぼ が延びていたようなのですが、放棄されて結構経っているようで、途中から道が完全な オフロードになります。私が訪れたときは雨の後だったのか、さらに轍が水流に掘られて 沢登り状態になっていました。「ヤバい!」と思ったときには既にかなり危険だったのです が、天祐かちょうど脇に田に入る作業路があり、そこでUターンできました。よほど荒れ地 向けの車でない限りは、オフロードになる前の舗装路に何か所か待避スペースがあった ので、そこに駐車することを強くおすすめします。 歩く分にはとくに問題はなく、迷うこともなく辿り着けるでしょう。登城路は主城域南側の 鞍部に取りつきます。そこから尾根筋の堀切を脇目に、土塁を伴った武者隠し状の曲輪 を抜け、主郭南下の副郭に至ります。副郭は東隅に虎口があり、おそらくここが大手口と 思われます。当時の居館は、東麓のふれあいグランド管理棟付近にあったそうです。 主郭は上下2段になっていて、2019年の発掘調査では礎石建物跡が検出されている そうです。すなわち、長期的に建物を使用する意志があったことになり、先述の通り向氏 が向小島城からこちらに居城を移していた可能性は、十分に考えられるでしょう。 小鷹利城の遺構で最も目を見張るのは、主郭北西斜面の畝状竪堀群でしょう。三木氏 の築城術の特徴とされており、周辺諸城にもしばしばみられる造作ですが、小鷹利城の 畝状竪堀群は鞍部を挟んだ反対側から真正面に眺められるのが大きな魅力といえます。 たいていの畝状竪堀は上から見下ろすことになるのですが、ここでは洗濯板状の地形を 向に望み、攻め上る兵士の気分もいくらか味わえます。 |
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東から小鷹利城を望む。 | |
西から主城域を見上げる。 | |
主城域南側鞍部下の馬場跡。 | |
主城域西側尾根の堀切。 |
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堀切の上にある武者隠し状の曲輪。 | |
副郭。 | |
副郭の虎口。大手か。 | |
主郭下段と上段の土塁。 | |
上段のようす。 | |
主郭北側の腰曲輪。 | |
主郭北西の堀切(右手)と竪堀(左手)。 | |
畝状竪堀群を正面に望む。 視認できるだけで6本はあります。 |
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北西尾根筋の堀切。 |