向小島城(むかいこじま)
 別称  : 信包城
 分類  : 山城
 築城者: 向氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : JR高山本線飛騨古川駅からバスに乗り、
      「笹ヶ洞公民館」下車徒歩3分


       <沿革>
           姉小路三家の1つ向氏の居城とされる。飛騨姉小路氏は建武の親政期に飛騨国司に
          任じられた姉小路家綱にはじまり、向氏は向之綱を祖とするとされるが、系譜について
          は詳らかでない。15世紀初頭までには、3家に分裂していたとされる。
           応永十八年(1411)、3家の1つ古川家の姉小路尹綱は、宗家である小島家に対して
          兵を挙げた(飛騨の乱)。向小島城も尹綱に攻められたといわれ、事実であれば、この
          ときまでに城が築かれていたことになる。尹綱は幕府による追討軍に敗れて戦死した
          ため、落城は免れたものとみられる。
           天正五年(1577)ごろ、父の死により向宣政が家督を継いだが、若年であったことから
          後見の牛丸重親が下克上を画策した。これを察知した重臣の後藤重元は、宣政を母の
          故郷とされる常陸国佐竹氏のもとへと逃がし、自身は重親の追っ手を相手に奮戦して
          討ち死にした。佐竹家臣となった向氏は、後に小鷹狩氏に改姓していることから、宣政
          の父のころまでには、居城を小鷹利城に移していたとも考えられるが、確証はない。
           このころの姉小路氏の事跡は大半が失われており、宣政の出自についても明らかで
          ない。一説には、姉小路高綱が宣政の実父とされ、高綱は古川家当主姉小路済俊の
          弟とされる、田向重継と同一人物ともいわれる。この場合、之綱以来の向家の系統は
          は高綱までに絶えたことになるとみられる。ただし、済俊の父済継が同十五年(1518)
          に、済俊も大永七年(1527)に齢22で没していることから考えると、高綱はかなり高齢
          で宣政をもうけた計算になり、不可能ではないものの疑問が残る。
           牛丸氏は、天正十年(1582)十月の八日町の戦いまでには、三木自綱(姉小路頼綱)
          に。しかし、飛騨の覇権を握った自綱により、重親の子親綱は城を逐われた。向小島城
          も、このときまでに三木氏の手に渡ったものとみられる。
           本能寺の変後の緊張状態にあって、向小島城は三木氏によって大きく改修されたと
          考えられている。しかし、天正十三年(1585)に羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨
          へ攻め入ると、向小島城も落城し、そのまま廃城となったとみられている。


       <手記>
           向小島城は、西麓を殿川が流れ、その向こうに小鷹利城を望む山城です。南西麓の
          恵比須神社前に2021年9月に設置されたばかりの説明板があり、また笹ヶ洞公民館の
          北の五ヶ村浄水場前にも説明板があります。
           神社の先には建物跡があり、その奥が登山口ということで標柱も建てられているの
          ですが、入口の獣除けフェンスには「関係者以外立入禁止」の札が掲げられ、留め具
          で開かないようにバッチリ留められていました。ということで、畝状竪堀群をはじめとする
          三木氏の遺構が見られるという向小島城ですが、登城は断念せざるを得ませんでした。

           
 西から向小島城跡を望む。
浄水場前の説明板。 
 恵比寿神社前の説明板。
入るに入れない登山口。 


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