高知城(こうち) | |
別称 : 河中山城、鷹城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 山内一豊 | |
遺構 : 天守、本丸御殿、門、石垣、堀など | |
交通 : 土佐電鉄高知城前電停下車 | |
<沿革> 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、西軍についた長宗我部盛親は改易され、代わって 山内一豊が土佐一国を与えられた。一豊は長宗我部氏の居城浦戸城に入ったが、すぐに 大高坂山築城を計画した。大高坂山には、長宗我部元親が一時居城とした大高坂城が あった。 築城にあたって、一豊は近江出身の百々越前守綱家を6千石の高禄で招聘し、総奉行に 任じた。近江穴太衆の技術による高石垣やデルタ地帯であった城下の治水など、それまで の土佐にはない大事業が行われた。一豊自身も浦戸からたびたび視察に訪れ、その際は 長宗我部旧臣の襲撃を畏れて常に5人の影武者を伴っていたといわれる。 慶長八年(1603)、本丸と二の丸が完成し、一豊が入城した。このとき、城は雪蹊寺の僧 月峰ないし真如寺の僧在川によって、河中山城(こうちやまじょう)と改名された。その後、 相次ぐ水害に悩まされたため、2代藩主忠義は「河中」の字を改め、竹林寺の空鏡上人の 言によって「高智」の字を充てた。これがいつしか高知城となり、城下町も高知と呼ばれる ようになった。 慶長十六年(1611)には三の丸が完成し、城の普請は完了した。しかし、享保十二年 (1727)の大火で城内のほとんどが焼失した。同十四年(1729)から城の再建が始まり、 延享二年(1745)に二の丸が、寛延二年(1749)に本丸が、宝暦三年(1753)に三の丸が それぞれ完成した。足掛け26年に及んで復興されたことになり、現存する天守もこのとき に再建されたものである。 その後は戦火に晒されることもなく、空襲の被害も免れ、今日に天守はじめ多くの建造物 を残している。 <手記> 高知城は私が最も好きな近世城郭の1つです。小ぶりで細身ながら、大きな破風を嫌味 なく纏った天守のフォルム。そして、追手門から見上げた際の、天守から左に伸びる本丸の 塀や御殿との絶妙な構図に魅了されます。 それに対して、山内一豊は私が最も嫌いな武将の1人で、KOEIの某ゲームでは捕えると 即座に斬首し続けてきました。そんなことを言っている所為でしょうか、登城中には青く晴れ 渡っていたのに、天守の目前に来ると、どこから現れたか大きな雲が頭上にのしかかって きました(しかも、下城したらまた晴れました)。 高知には、幼少の頃に一度来ているのですが、そのときの記憶を手繰って最も変わった ところは三の丸でしょう。そもそも三の丸から見上げた天守の姿に見覚えがないので、もし かしたら以前は入ることもできなかったのかもしれません。この三の丸は石垣がくたびれて きていたため、調査も兼ねて修復が行われています。発掘調査の結果、三の丸の南半分 ほどは、伝承の通り盛土によって造成されていることが判明しました。 なぜそのような大規模な造成工事が必要だったかは、縄張りを見れば明らかです。高知 城の最大の防御ラインは、三の丸下の杉の段から三の丸鉄門の枡形にかけてといえます。 追手門から杉の段まではわりと緩やかな道のりですが、杉の段に入った途端、三の丸と 本丸から集中砲火を浴びることになります。よしんば三の丸を抜けたとしても、まっすぐ突き 進んでは本丸・二の丸には到達できないようになっています。こうした急所としての三の丸 を形成するために、上記のような盛土が必要だったのだと思われます。 さて、本丸には天守と、全国で唯一本丸に現存する御殿があります。天守からは四方が よく望めます。意外だったのは、天守最上階からでもほとんど海が見えないということです。 もちろん、当時は浦戸湾がもっと深く入り込んでいたのでしょうが、改めて土佐の山深さを 感じました。 城の西方と北方にも高石垣が巡っているのですが、こちらもかなり欠けや孕みが見られ るため、早急に調査と修復がなされることを期待します。 |
|
おなじみのアングル、追手門と天守。 | |
板垣退助像と天守。 | |
三の丸から天守を望む。 以前は、この角度から天守を見ることは出来なかった気がします。 |
|
天守近影。右奥に本丸御殿が続きます。 | |
本丸黒鉄門。 | |
三の丸の修復された石垣。 | |
城の西側、獅子の段の石垣。 かなり傷んできており、こちらも早急に修復が必要と思われます。 |
|
天守に設けられた忍び返し。 | |
左右で構築年代や手法の異なる御台所屋敷跡の石垣。 |