浦戸城(うらど)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 不明
 遺構  : 石垣、天守台、曲輪跡、堀切、井戸など
 交通  : JR高知駅周辺よりバス「竜馬記念館前」バス停下車


       <沿革>
           鎌倉時代から南北朝時代までの間に、在地領主の城館が営まれていたと考えられているが、
          詳しい起源は不明である。建武三/延元元年(1336)に、この地を巡って南北朝勢力が争った
          ことが記録に残っている。
           浦戸城の本格的な中世城郭としての歴史は、北から勢力を伸ばした本山茂宗(梅慶)が天文
          年間(1532〜55)にこの城を整備したことにはじまる。梅慶は、浦戸湾を挟んで対岸の種崎城
          進出した長宗我部国親と対峙するために浦戸城を取りたて、長浜城を新たに築いた。
           永禄三年(1560)、兵糧を積んで種崎城へ向かった長宗我部氏の船が本山氏側の潮江城
          兵に襲われたことから両氏の関係は悪化し、五月二十七日の長浜戸の本の戦いへと発展した。
          長宗我部元親の初陣でもあったこの戦いで長宗我部軍が勝利し、梅慶の嫡子茂辰は浦戸城へ
          逃げ込んだ。国親は、陸には柵を設け、海には船を並べて浦戸城を包囲した。たちまち城中の
          兵糧は窮乏したが、国親はやおら囲みを解いて種崎城へ引き上げ、岡豊城へ戻った。包囲を
          解かれた茂辰も、兵をまとめて朝倉城へ退却した。浦戸城には国親の次男親貞が入ったが、
          国親はそのまま岡豊城で歿し、跡を元親が継いだ。
           親貞は、永禄六年(1563)に吉良峰城の吉良氏を継いだため、その後の浦戸城については
          しばらく空白の期間がある。
           一度は四国を手中に収めたものの、豊臣秀吉に敗れて土佐一国を安堵された元親は、天正
          十五年(1587)に岡豊城から大高坂城(現在の高知城)への移転を図った。しかし、普請途中
          の同十七年(1589)から浦戸城の改築へシフトし、同十九年(1591)に元親は同城へ移った。
           元親の跡を継いだ四男盛親は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍についたため、改易
          された。代わって山内一豊が土佐国主となるが、長宗我部氏の遺臣たちは一豊の入国を拒み、
          浦戸城の受け取りに派遣された井伊直政の家臣を追い返した。この後、一領具足と呼ばれる
          半兵半農の長宗我部旧臣らを中心に、50日に及ぶ「浦戸一揆」が起こった。一豊側が謀略を
          もって一揆の首謀者を討ち、一豊は新たに高知城を築いた(当時の呼び名は「河中山城」)。
          同八年(1603)には、一豊は高知城へ移り、浦戸城はここに廃城となった。


       <手記>
           浦戸城は、高知を代表する観光地桂浜の直上に築かれた城です。三方を海に囲まれ、北に
          浦戸湾を扼しています。浦戸城には三層の天守が上げられていたとされ、土佐で天守が築か
          れた最初の城といわれています。
           本丸にあたる詰ノ段は、現在県立坂本龍馬記念館と国民宿舎桂浜荘の敷地となっています。
          そのため、たいていの書籍では、浦戸城にはほとんど遺構が残っていないとされています。
          たしかに天守台が残ってはいますが、高台に城八幡が祀られているだけですし、天守台と駐車
          場の間に石垣の一部が移築積み直しされていますが、なんとも目立たない感じです。
           ですが、よくよく歩き回ってみると、結構あちこちに城の痕跡を見ることができます。とりわけ、
          記念館の駐車場の南端から西に向かって、城跡の西半分が散策路として整備されています。
          この散策路を歩くと、いくつかの曲輪跡が連なっているのが分かります。なかでも圧巻なのは、
          二ノ段と三ノ段の間にある3条の堀切です。また、曲輪跡は休憩所や展望台となっていて、
          砂浜と太平洋が続く雄大な景色を楽しめます。
           さて、浦戸城に関する大きな論点として、「なぜ元親は大高坂城を放棄して浦戸城に移った
          のか」というものがあります。従来の説では、元親は江ノ口川と鏡川に挟まれた大高坂(現在
          の高知市街。以下分かりやすくするため高知に統一します。)周辺の治水に失敗し、やむなく
          浦戸へ移ったとされてきました。すなわち、消極的な理由による遷城であったというわけです。
          しかし、この説には大きな穴があります。それは、「なぜ高知の代替地が浦戸なのか」という点
          です。浦戸は、一豊ならずとも一見して分かるとおり、狭隘で都市としての発展性が望めない
          場所です。たとえ高知が治水上の問題で使えないとしても、それに準ずる場所は他にまだまだ
          あったはずです。にもかかわらず、わざわざ浦戸を選んだという背景には、高知にはない何かが
          理由や目的としてあったと考えるのが自然です。
           積極的な理由としては、水軍の整備や海運の重視を取り上げる説があります。たしかに土佐
          は山深く、物品の輸送には海路を使った方が容易ですし、元親は小田原攻めで水軍を率いて
          参戦しました。しかし、群雄ひしめく戦乱の世ならいざ知らず、土佐一国大名として認められた
          元親に、湾の出入口に居城を築く必要性があったのか甚だ疑問です。本当に海運を重視して
          いるのなら、高知がまさにそうであるように、海と陸の結節点を押さえる必要があるでしょう。
           こうした、「大高坂城計画の失敗」を前提とした従来の説に対して、近年興味深い意見が唱え
          られるようになりました。それは、大高坂城は未完成であったが失敗ではなく、完成前に朝鮮
          出兵を睨んだ秀吉によって、海への玄関口である浦戸への築城移転を命じられたのだ、とする
          ものです。秀吉の命令であることを示す証拠があるわけではありませんが、この説の炯眼たる
          ところは、同じくこのころに築かれた小早川隆景の名島城とリンクさせて考えている点です。
           名島城も浦戸城も海に面して築かれ、関ヶ原の戦いの後に新大名が封じられた際に、城下町
          をつくるスペースがないとして廃された城です。隆景も元親も、政治手腕に長けた武将ですから、
          何の理由もなしに町の発展が望めない場所に居城を築くとは考えられません。朝鮮出兵の際の
          基地として、秀吉がこれらの城の建設を命じたとすれば、確かにきれいに説明がつきます。この
          説は、まだ演繹的推測の域を出てはいませんが、説得力があるように思います。
           ただ他方で、この説は名島城も浦戸城も朝鮮出兵よりかなり前に築かれているという弱点も
          もっているように感じられます。この説については改めて論じる機会があればと思います。

           
 天守台のようす。
天守台下に移築、積み直しされた石垣。 
 天守台北側の曲輪跡に立つ石碑。
 三ノ段西側の三条の堀切。 
 三ノ段のようす。
 二ノ段のようす。 
 詰ノ段の井戸跡。
 浦戸城址から東方を望む。 


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