大高坂城(おおたかさ) | |
別称 : 大高坂山城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 大高坂氏 | |
遺構 : 石塁跡 | |
交通 : 土佐電鉄高知城前電停下車 | |
<沿革> 読みは「おおたかさか」とも。この地を領した大高坂氏の居城である。大高坂氏は、源平合戦 で平家方として源頼朝の弟希義を討ち取った平田俊遠の後裔とされるが、詳細は不明である。 また、大高坂氏がいつごろ大高坂山に城館を築いたのかも定かではない。 南北朝時代に入ると、大高坂松王丸(義秀)は南朝方につき、後醍醐天皇の子満良親王を 大高坂城に迎えた。以後、北朝方との間で大高坂城は攻防を繰り返した。北朝方は、対の城 として安楽寺城(地点不明)を築き、攻防戦は長期化した。 暦応三/興国元年(1340)一月、細川定禅の要請を受けて結集した北朝軍と、大高坂城の 救援のために潮江山に参集した南朝軍の決戦が大高坂城下で行われた。この戦いで松王丸 は戦死し、大高坂城も落城した。大高坂氏の所領は北朝方の堅田又三郎に与えられたが、 城はそのまま廃城になったと考えられている。 大高坂氏自体はその後も続いていたようで、戦国時代に本山氏が南下すると、大高坂経之 がこれに属したとされる。後に勃興してきた長宗我部国親の攻撃を受け、時期は不詳だが、 経之は長宗我部氏に降伏した。おそらく、永禄三年(1560)に本山方の潮江城が落とされて から間もなくであると思われる。 天正十三年(1585)に豊臣秀吉に降伏し、土佐一国を安堵された長宗我部元親は、同十五 年(1587)に居城を岡豊城から大高坂城へ移した。元親は、居館を大高坂山の北西麓に築き、 周囲に家臣の屋敷地を設けた。しかし、この大高坂移転に伴う家臣の集住化ははかばかしく 進まなかったようで、兵農分離の不完全な例として学術的な関心を集めている。また、旧有力 豪族の城下町から商工人を移住させ、「新町市」がつくられた。これらの新市の名残は、現在 でも「蓮池町」や「山田橋」といった地名にみることができる。 このように、元親は中央にならった近世大名の城下町を建設しようと試みたが、天正十九年 (1591)に、居城を再び浦戸城へ移したため、大高坂城と城下町の建設は未完成のまま凍結 となった。この移転の理由には諸説あり、浦戸城の項を参照されたい。 元親の浦戸移転後、長宗我部家が関ヶ原の戦いで改易となるまで、大高坂城が再び利用 されることはなかった。代わって土佐一国に封じられた山内一豊は、大高坂山に新城を築き、 慶長八年(1603)に入城した。このとき城は河中山城と改名され、大高坂城としての歴史に 幕を閉じた。 <手記> 現在の高知城の前身となる城です。高知築城の際に、山容の改変も含めた大規模な普請 が行われたため、大高坂城時代の構造についてはほとんど明らかになっていません。 高知城三の丸の石垣修復事業にともなう発掘調査で、長宗我部氏時代のものと推定される 石垣が検出されました。またこの調査では、三の丸の南半分はかなりの盛土によって造成 されていて、大高坂城時代は東向きに舌状に峰が延びていたことが判明しました。 長宗我部氏の居館は、山の北西麓に2段に分けて営まれていたとされています。この方面 を歩いてみると、高知城獅子の段と二の丸の高石垣によって2段の急勾配となっています。 しかし、このような高い石垣は長宗我部氏の技術では構築不可能であったと考えられるため、 当時の大高坂山は東側に比べて西側の斜面がかなり緩やかだったのではないかと思われ ます。それゆえ、元親はこの北西のなだらかな山裾に、二段の居館を設けたのではないかと 拝察されます。 大高坂城にしても浦戸城にしても、近世大名としての長宗我部氏の統治期間が15年程度 と短かったため、未完成なまま後世にほとんど情報も遺物も残されていないのは残念といわ ざるを得ません。 |
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高知城三の丸で発掘された、長宗我部氏時代の石垣。 | |
高知城天守から、長宗我部氏時代に居館が営まれていた 西側を望む。 |