大熊備前守屋敷(おおくまびぜんのかみ)
 別称  : 大熊館
 分類  : 平山城
 築城者: 大熊長秀
 遺構  : 堀跡
 交通  : JR東海道本線島田駅からバスに乗り、
      「片岡北吉田特別支援学校」下車徒歩15分


       <沿革>
           元亀二年(1571)に武田信玄が徳川方の山崎の砦を攻め落とすと、小山城と名付けて改修
          し、城代として大熊朝秀・長秀父子を入れた。備前守とは長秀のことで、このときに城代屋敷
          兼支砦として築かれたものとみられている。
           天正三年(1575)の長篠の戦いから同六年(1578)の御館の乱までの間に、小山城の城番
          は岡部元信に代わっているが、長秀屋敷の扱いについては詳らかでない。小山城は同十年
          (1582)の織田信長による武田攻めに際して落城し、遅くともこのときに廃されたものと推測
          される。


       <手記>
           小山城のある丘陵の付け根側に、舌状に突き出た地形を利用して築かれており、地形的
          にはやはり屋敷というより小山城の弱点を補う出城に近いと思われます。残念ながら城地の
          大部分は工場および病院の敷地として削り取られています。周辺は茶畑で、配水池のタンク
          を目印にして、残った部分の先端まで行けます。
           茶畑の中に標柱が、脇の藪の陰に説明板があり、標柱前の通路はおそらく屋敷跡付け根
          の堀切跡でしょう。それ以外にはっきりとした遺構はみられず、小山城の見事な三重三日月
          空堀に比べると寂しい状況となっています。

           
 屋敷跡を望む。
屋敷跡標柱。 
 屋敷跡説明板。
標柱前の通路。 
付け根側の堀切跡か。 


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