小山城(こやま)
 別称  : 山崎の砦
 分類  : 平山城
 築城者: 今川氏か
 遺構  : 堀、土塁、井戸跡
 交通  : JR東海道本線島田駅または藤枝駅から
      バスに乗り、「片岡北」下車徒歩10分


       <沿革>
           今川氏によって砦が築かれたのがはじまりとされるが築城の経緯については明らか
          でない。当初は山崎の砦と呼ばれていたとされる。永禄十二年(1569)、武田信玄の
          駿河侵攻に際して、徳川家康と今川領を大井川で分割するという密約を結んでいたと
          され、家康は大井右岸の経営拠点として山崎の砦に大給松平真乗を配した。信玄が
          密約を反故にして山崎の砦に兵を進めたため、家康が武田氏と断交して真乗に砦を
          奪い返させたともいわれる。
           元亀二年(1571)、本格的に徳川領へ侵攻した信玄は、山崎の砦を抜き馬場信春に
          改修させた。このときに小山城と改名されたとされ、城代には大熊朝秀・長秀父子が
          入れられた。同じ大地の西側には、長秀の居館兼支砦とされる大熊備前守屋敷
          ある。
           天正三年(1575)の長篠の戦いで武田勝頼が敗北すると、反転攻勢に出た徳川勢
          が小山城へ攻め寄せた。このときの城番は岡部元信であったとされ、元信の奮戦に
          より、城は陥落を免れている。元信はその後、高天神城主に転じた。
           天正十年(1582)、織田信長による武田攻めが始まり、徳川勢が迫ると、小山城の
          将兵は戦わずして退去した。このとき朝秀が在城していたかは不明だが、彼は勝頼
          が天目山で自害するまで付き従っている。これにより、小山城は役割を失い廃城と
          なった。


       <手記>
           舌状台地を空堀で切断した典型的な戦国時代の城ですが、武田流の三日月堀が
          とても良好に残っているのが魅力です。とくに、最も外側の三日月堀は三重になって
          いて、その景観はいくつもの沢にまたがる長野県の大王わさび農場のようにも見え
          ました。この三重の間の土塁について、『静岡の山城 ベスト50を歩く』ではその低さ
          を指摘しています。たしかに堀を跨いでの移動を遮るにしては低いといえ、あるいは
          塁上に敵兵を並べ、鉄砲で鴨撃ちにするための工夫とも考えられます。
           小山城は、本来は東を向いた城で、武田氏から見れば徳川軍が攻め寄せてくるで
          あろう西が、地続きで最も弱い方角となっています。この弱点を補うために、異様な
          ほどに堀を重ね、最大級の警戒を布いたのでしょう。
           ほかにも本郭の空堀と三日月堀、二の郭の空堀などがはっきり見て取れ、二の郭
          に近世的な模擬天守閣が建てられてしまっているのが残念でなりません。徳川氏が
          接収して以降は使われていなかったとみられ、武田氏時代のようすをそのまま伝え
          ている重要な史跡として、これ以上破壊されずに保存されることが望まれます。

           
 駐車場のある能満寺前から模擬天守を望む。
本郭の空堀と模擬天守。 
 本郭の空堀。
本郭空堀の南端付近。 
 本郭のようす。
本郭先端付近。 
土塁の痕跡か。 
 本郭馬出の三日月堀。
二の郭の空堀。 
 三重の三日月堀。
三重三日月堀の南側に位置する空堀。 
 三重三日月堀北端に隣接する大手門跡。
 礎石部分が地表復元されているようです。
大手門脇下の勘助井戸跡とされるあたり。 
勘助由来と伝えられるとあるものの、 
駿河侵攻時には勘助はすでに没しています。 
 おまけ:能満寺のソテツ。
 日本三大ソテツで、樹齢は千年だそうです。
 城があった頃には、すでに立派な大木だった
 ことになります。


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