熊谷氏館(くまがいし)
 別称  : 熊谷館
 分類  : 平城
 築城者: 熊谷氏
 遺構  : なし
 交通  : 秩父鉄道上熊谷駅徒歩10分


       <沿革>
           在地領主熊谷氏の居館址とされる。熊谷氏の出自には桓武平氏説と私市党説の2つ
          あり、はっきりしない。明確に史料に現れるのは、平安時代末の熊谷直貞からである。
          前者によれば、平貞盛の曾孫直方の孫平盛方の子が直貞で、熊谷氏の初代とされる。
          後者によれば、私市党(宣化天皇の後裔丹治姓を称し、武蔵七党に加えられることも
          ある)庶流で、熊谷直季を祖とし、その曾孫が直貞とされる。
           直貞は17歳で死去したとされ、残された2歳の男子は直貞の妻の兄弟にあたる久下
          直光に預けられた。この男子こそ、『平家物語』の平敦盛を討ち取るくだりで有名な熊谷
          次郎直実である。物語では、息子と同じくらいの年齢の若武者であった敦盛を、討ち取ら
          ざるを得なかった武士の運命に悲嘆して出家を決意するという、諸行無常をもっとも体現
          したエピソードの1つとなっている。他方で、『吾妻鏡』によれば、直実の出家には直光と
          の訴訟が大きく関わっているとされる。いわく、直貞の死後、直実は直光の郎党扱いを
          受け、熊谷郷もほとんど横領されていたためにこれを訴えたものの、有力御家人の梶原
          景時が直光を支持したため訴訟は直実の不利に傾き、これに憤慨した直実が出家して
          しまったとされる。
           直実の跡は嫡男直家が継ぎ、その長男直国は承久三年(1221)の承久の乱で討ち死
          にした。その功により、熊谷氏は安芸国三入荘を与えられた。直国の子は安芸へ下向
          したため、そちらが熊谷氏の嫡流とみられるようになった。熊谷郷には直家の次男直重
          が残った。
           元弘三年(1333)、足利尊氏の挙兵にともなう六波羅攻めで、直重の子孫である直鎮
          が活躍している。直鎮はその後尊氏から三河国八名郡を与えられて移り住み、高力氏
          の祖となった。その後の武蔵熊谷氏については不詳である。


       <手記>
           現在の熊谷寺が熊谷氏の館跡とされています。直実は法然に帰依して出家しました
          が、熊谷寺はその法然の興した浄土宗のまま、直実の出家名である蓮生を山号として
          います。歴史的にも文学的にも、また浄土宗の縁起からしても重要な寺だと思うのです
          が、なぜか内部は非公開となっています。残念を通り越して摩訶不思議に感じます。
           熊谷寺南東隅付近に、やはり直実ゆかりとされる伊奈利神社(奴稲荷)があります。
          この神社は、別名を弥三左衛門稲荷といい、稲荷明神が姿を変えた弥三左衛門という
          武者が直実をたびたび助けたことから、館の鎮守として祀ったものと伝えられています。
           そのほか、とくに遺構やゆかりのものは見当たりません。
           
 熊谷寺。
 
伊奈利神社。 
 


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