久野城(くの) | |
別称 : 上久野城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 岡見氏か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口、土橋 | |
交通 : JR常磐線牛久駅よりバス 「牛久大仏」バス停下車徒歩10分 |
|
<沿革> 岡見氏家臣野口式部の居城とされるが、築城年代は不明である。天正二年(1574)、 小田氏から佐竹氏に寝返った上条城主江戸崎監物の家臣桂左衛門に攻められ、落城 したとされる。 監物は、翌天正三年(1575)に江戸崎城主土岐氏によって攻め滅ぼされたが、久野 城のその後については詳らかでない。 <手記> 久野城は、世界遺産にも登録された牛久大仏の南、乙戸川沿いに突き出た舌状丘陵 を利用して築かれています。ただし、牛久浄苑から直接フラットに城域に入ることは困難 で、一旦川辺へ下りる必要があります。南東麓から墓地となっている主郭へ登ることが できます。 主郭は、堀と土塁に囲まれたほぼ正方形の区画です。舌状台地に選地していながら その先端ではなく、L字に折れた南東隅を主郭としていることから、築城当初の久野城 はこの主郭のみの単郭方形の館城だったものと推測されます。 台地先端側が二曲輪とされていますが、こちらは現在畑地や宅地になっており、堀跡 や土塁の痕跡が認められるほかは、どの程度旧状を残しているのか定かでありません。 主郭背後の台地付け根側が三曲輪となり、主郭との間の堀と土塁は城内の見どころの 1つとなっています。ただし、膝ぐらいの丈の下草が一面に繁茂していて、歩きにくいうえ に全体の把握を難しくしています。 三曲輪には麓へ通じる堀底道があり、これが鉤の手に折れていて一種の喰い違い状 虎口を形成しています。三曲輪の背後には堀切と土橋が設けられており、城域の断絶 が図られています。 久野城は、明確に南東を向いており、土岐氏と対立する岡見氏が築いたであろうこと は明白です。ですが、『牛久市文化財ガイドマップ』など久野城を土岐氏の城とする資料 も少なくありません。おそらくこれは、土岐氏が江戸崎監物を滅ぼした際に久野城も手に 入れ、そのまま使用していたとする推測によるものと思われます。ですが、江戸崎監物 以降も久野城が存続していたかどうかは明らかではなく、断定的に論じるのは勇み足の ように感じられます。 |
|
久野城跡近望。 | |
主郭背後の堀。 | |
主郭背後の堀南端。 竪堀状に落ち込んでいます。 |
|
二曲輪の土塁。 | |
三曲輪の喰い違い虎口状の堀底道。 | |
三曲輪のようす。 | |
三曲輪背後の土橋。 | |
三曲輪背後の堀切。 |