江戸崎城(えどさき)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 原秀成か
 遺構  : 曲輪跡、土塁
 交通  : JR常磐線土浦駅またはJR成田線佐原駅よりバス
       「江戸崎」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           鎌倉時代後期の美濃源氏嫡流土岐光定の六男蜂屋定親の子師親は、美濃国恵那郡遠山荘
          原郷原村に居住し原氏を称した。師親の孫の左馬助秀成は、関東管領上杉憲方に従って関東
          に下向し、常陸国信太郡信太荘に移住した。江戸崎城は秀成によって築かれたと推測される。
          ただし『新編常陸国誌』によれば、師親が弘安年間(1278〜88)に信太荘の地頭となり、その孫
          景秀が築いたとされる。さらに『日本城郭大系』では、永享十一年(1439)に永享の乱での功績
          によって秀成が江戸崎周辺を加増され、城はこのときに築かれたものとしている。一般的な土岐
          氏系図によれば、永享の乱のときの当主は秀成の子憲秀とされ、また景秀は憲秀の子で師親
          の玄孫にあたる。
           江戸崎に拠った原氏は、下総国にすでにあった千葉氏支族の原氏と区別するため土岐原氏
          とも称した。また、後世には上総国万喜城に拠った土岐氏との区別のために江戸崎土岐氏とも
          呼ばれた。
           景秀の子景成は、明応六年(1497)に嗣子なく没した。後継をめぐって家中は混乱し、一時は
          小田城主小田氏に江戸崎城を奪われてしまったといわれる。永正年間(1504〜20)に、土岐氏
          本家の美濃守護土岐政房の三男治頼を迎え、先代景成の養女と娶せて当主とした。治頼は、
          まもなく江戸崎城を奪回し、小田氏との争いを続けながら以前の勢力を取り戻した。
           天文十一年(1542)、治頼の兄頼芸は家臣斎藤利政(のちの道三)によって美濃国を逐われ
          てしまった。頼芸は一時江戸崎の治頼を頼り、家系図や家宝を譲渡した。頼芸のこの行為は、
          土岐氏宗家を江戸崎土岐氏に譲ったものとも解釈されている。事実、治頼の方でも宗家を意識
          してか、治頼ないしその子治英のころから原の苗字を棄て、土岐氏を称するようになった。
           天正十八年(1590)の小田原の役で土岐氏は北条氏に属し、『毛利家文書』によれば、江戸
          崎と竜ケ崎城、および木原城の3城に1500騎ほどが詰めていたとされる。しかし、5月20日に
          豊臣方の軍勢を前に無血開城し、江戸崎城主土岐治綱は城下へ退去したと伝わる。ただし、
          江戸崎城堀跡とされる箇所の工事にともなう発掘調査で、数十体におよぶ人骨が見つかり、
          傷の具合から何らかの虐殺行為があったものと考えられている。これらの人骨がいつのもので
          あるかは定かでないが、ここから江戸崎城で戦闘があったのではないかと推測する向きもある。
          治綱はその後帰農したと伝わる。
           役後、旧土岐氏領は佐竹氏領となった。江戸崎城には佐竹義重の次男蘆名盛重(義広)が
          入り、豊臣秀吉から直に江戸崎4万5千石に封じられた。慶長七年(1602)、佐竹氏が出羽へ
          移封となると、盛重もこれに従った。翌八年(1603)、青山忠成が1万5千石で入城した。この間、
          土浦城主松平信一とその子信吉が城を守備していたとされる。忠成の子忠俊の代に3万5千石
          に加増され、忠俊は元和六年(1620)に岩槻へ加増転封となった。続いて古渡藩主丹羽長重
          が2万石で入るが、同八年(1622)に棚倉へ加増転封となり、江戸崎藩は廃藩となった。城も、
          このときに廃城になったものと推測される。


       <手記>
           江戸崎城は、現在の地図からも読み取れるとおり、霞ケ浦へ注ぐ小野川の入江に面しており、
          文字通り霞ケ浦への「江」の「戸」に臨む「崎」にありました。城の南側を迂回する小野川支流の
          沼里川に突き出した独立丘の上に立地しています。
           現在、本丸一帯は畑地に、二の丸と三の丸の一部が江戸崎小学校の敷地に、三の丸の北側
          3分の2ほどが鹿島神社境内となっています。城址碑や説明板はありませんが、本丸に稲荷社
          が祀られています。
           本丸の北面には、土塁が断続的に残っています。また、本丸南側は一段低い空間をともなって
          虎口状になっており、『大系』ではそのように描かれていますが、当時の遺構かは今ひとつ判然
          としません。鹿島神社北側にも、三の丸北辺の土塁が残されています。ここから道路をはさんだ
          北側にある瑞祥院も城域といわれています。
           江戸時代初期まで使用されていたと思われる城ですが、戦国期の城のようすをわりあい留めて
          いるように感じました。

           
 本丸のようす。
本丸南側の虎口状のスペース。 
土塁および曲輪跡か。 
 本丸の土塁。
同上。 
 鹿島神社境内の三の丸の土塁。
同上。 
 同上。


BACK