久礼田城(くれだ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 久礼田忠幸か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : 高知自動車道南国ICより車で10分


       <沿革>
           長宗我部家3代忠俊の弟忠幸は、久礼田を領して久礼田氏を名乗った。久礼田城も、この忠幸に
          よって築かれたと伝わる。戦国時代に至るまでの久礼田氏の動向については不明だが、長宗我部
          氏の庶流として、一定の勢力をもっていたものと思われる。
           天正元年(1573)に長宗我部元親が幡多郡の一条兼定を駆逐すると、兼定の嫡子内政は大津城
          に移され、元親の娘を娶った。内政は同八年(1580)に病死し(元親による毒殺とも)、内政の遺児
          は久礼田城主久礼田定祐に預けられ、元服して一条政親と名乗った。政親はその後も久礼田城に
          住みつづけ、久礼田御所と尊称された。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで長宗我部氏が改易された後は、政親は畿内に移ったとも土佐
          にとどまったともいわれ、その動向は明らかでない。いずれにせよ、長宗我部氏改易とともに久礼田
          城も廃されたと思われる。


       <手記>
           久礼田城は、領石川が平野部に出る喉口部に位置し、眼下に旧土佐国府を望むことができます。
          現在、主郭部を除く山の大部分がゴルフ場のラウンドになっています。ゴルフクラブのフロントから、
          駐車場を挟んで向かい側に、主郭部の小山があります。
           ここには詰の段と二の段、そして二の段下の空堀と土塁がとても良好に残されています。ゴルフ場
          の敷地内ということであまり期待していなかったのですが、嬉しい形で裏切られました。こんなに綺麗
          に残してあるのにタダで駐車場を借りて見学したのでは申し訳ないと、フロントのレストハウスで昼食
          をいただきました。こちらもなかなか美味しく、人生で初めてゴルフ場に好感をもちました。
           さて、一条内政のいた大津城は、長宗我部氏の居城岡豊城の眼前眼下にあり、内政が明らかに
          元親の監視下にあったことがうかがわれます。それに対して、久礼田城は岡豊城よりも高所にあり、
          徳島北街道を扼する重要な城といえます。政親は元親の孫であり、長宗我部氏にとって大恩のある
          一条家の血筋も伝える人物です。元親は、娘を娶わせたものの心を許せない内政にかわり、自分の
          血も受けついだ政親に期待を寄せ、久礼田城という重要な城を任せ、ゆくゆくは一門衆として遇する
          つもりだったのではないかと、この城を見て考えました。

           
 久礼田城遠望。
二の段下の空堀と土塁。 
 同上。
 詰の段のようす。 


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