栗ヶ沢城(くりがさわ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 高城胤忠か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR常磐線北小金駅徒歩25分 | |
<沿革> 『高城家文書』によれば、寛正元年(1460)に千葉氏家宰原氏の重臣高城下野守 胤忠が主君原胤隆の命を受けて栗ヶ沢に入植し、築いた城とされる。同三年(1462) には、胤忠は新たに根木内城を築いて移ったとされる。 異説として、胤忠の子とされる胤吉が永正三年(1506)に栗ヶ沢に陣を張り、その 際に栗ヶ沢城を築き、同五年(1508)ないし大永五年(1525)に根木内城へ移ったと するものがある。ただし、『本土寺過去帳』には「延徳二年(1490) 高城新右衛門 同子息彦九郎クリカサワ」とあり、少なくとも15世紀中に高城氏が栗ヶ沢に入植して いたことは間違いないとみられている。 『東葛飾郡誌』によれば、根木内移転後の栗ヶ沢城には高城氏の重臣田島氏が 入ったとされる。廃城時期については不明である。 <手記> 栗ヶ沢城の所在地については、資料によって根木内中学校とするものと根木内小 学校とするものがあるようです。現地を踏査してみましたが、中学校の方は細長い 台地の鞍部に位置しており、少なくともこちらではないように感じました。小学校の 方は、台地の角にあたり、在地領主の居館が営まれてもおかしくない地形のように 思います。ただ、『日本城郭大系』には「小金原田」団地(おそらく「小金原」の誤記) の一部で、字若芝にあるとあり、どちらも小学校からはやや離れたところにあります。 また、小学校南東には城郭関連とみられる殿内の小字があり、現在も団地に面した 交差点名として残っています。したがって、どこにどのように存在していたのか、今と なっては分からなくなってしまっています。 一応、小学校の北から東、そしてその南へとごく小規模な谷戸が走っており、この 谷戸を経営するための城館であったことは、想像がつきます。ただ、どうみても生産 性にも要害性にも優れているとは考えにくく、3年と経たずに根木内城を築いて移転 したとしても、まったく不思議でないように思います。むしろ、はじめ栗ヶ沢へ入植し、 その後なんとか富士川の利権を獲得するや否や、早々に根木内城を築いて流域の 確保へ奔走したのではないかなというのが、現地を歩いてみての私なりの直感です。 ちなみに、根木内中学校周辺に相当する小金原1〜4丁目には、『中世城館調査 報告書集成』によれば江戸時代に水戸藩の御鷹場役所が営まれていたようです。 |
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根木内小学校を見上げる。 | |
殿内交差点。 |