根木内城(ねぎうち) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 高城胤忠か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口、土橋 | |
交通 : JR常磐線北小金駅徒歩15分 | |
<沿革> 『高城家文書』によれば、寛正三年(1462)に高城胤忠によって栗ヶ沢城に代わる 新たな居城として築かれたとされる。高城氏は千葉氏庶流原氏の分流とされるが、 その出自については定かでない。一般的に、後の小金領主高城氏の歴史は同元年 (1460)に胤忠が原氏の重臣として栗ヶ沢に入植したことにはじまるとされる。 永正十四年(1517)、高城氏の主君原氏の居城小弓城が真里谷武田氏の支援を 受けた足利義明によって攻め落とされた。このとき、胤忠と嫡子胤晃も小弓城に籠城 して討ち死にしたともいわれるが、定かでない。いずれにせよ、小弓落城時には胤忠 の次男とされる胤吉が家督を継いでおり、胤吉は原氏の家督を継いだ胤清を根木内 城に迎え入れた。『小金城主高城家由緒』によれば、時期は定かでないが根木内城 を築いたのは胤吉であるとしており、これが正しければ、胤清が入ったのは栗ヶ沢城 であった可能性も考えられる。 永正年間(1504〜21)、根木内城の南西、栗ヶ沢城の北西一帯で、足利義明勢と 高城胤吉勢の間で行人台の戦いが行われたとされる。小弓城が落城した同十四年 から同十八年(1521)の間のことと思われるが、詳細は明らかでない。その後、胤清 は北条氏綱を頼り、胤吉は義明に備えて享禄三年(1530)に小金城築城を開始した とされる。 天文六年(1537)に小金城が落成すると、胤吉は居城を移し、根木内城は支城と なった。廃城時期は不明である。 <手記> 根木内城は、上富士川と平賀川に挟まれた細長い舌状台地の先端に築かれた城 です。城の中心部を国道6号線が斜めに貫通しているうえ、分断された本丸側は宅地 として完全に開発されています。残った3分の1ほどの城域(最南端の2つの曲輪の東 半分ほど)が根木内歴史公園として整備されています。 残り方としては少々残念ですが、公園内の遺構はなかなか素晴らしいものです。 不幸中の幸いなのは、大手口がしっかり残っているところでしょう。大手の深い空堀と 土橋、そして虎口の3点セットのお出迎えは、興奮を覚えるのに十分です。この虎口 は土橋から直進できないよう少し曲がっており、攻めにくくする、あるいは覗かれない ようにするための工夫と思われます。 土塁で囲まれた大手の曲輪と、そのひとつ北側の曲輪の間の空堀も、道路建設と 園内の通路建設のためにやや埋もれていますが、しっかり残っています。その向こう には、もうひとつの曲輪の東半分ほどが、半ば雑木林となっています。 城山の東麓の上富士川沿いは湿地エリアとして整備が進められています。中世の 城館に湿地帯で囲まれているために攻城は至難とされているものは数多いですが、 治水の進んだ今日までその様相をとどめているものはほとんどなく、こうした取り組み は城の旧観を拝察するうえでもとてもありがたいように感じました。 対して、本丸側である国道の北側は、上述の通り住宅地となっていて遺構はおろか 旧状をうかがうのも困難です。ただ、国道と住宅地を直接結んでいる唯一の車道は、 『日本城郭大系』所収の縄張り図と突き合わせると、本丸堀と合致しているようにも 見受けられます。あるいは、堀跡を転用したのかもしれません。 根木内城については、その築城時期が1つの焦点となっています。とはいえ、胤吉 以前の高城氏の歴史については不明な点が多く、どうしても推測の域をでるものでは ありません。たとえば、胤吉の父とされる胤忠が寛正元年(1460)に栗ヶ沢に入った とすると、永正十四年(1517)の小弓城落城時には相当な高齢となります。まして、 天文六年(1537)生まれの胤吉の子胤辰(これはほぼ確実)の祖父となるのは、不可 能ではないものの、かなり不自然といえます。したがって、胤忠の前後どちらかに1代 差し挟むべきと思われるのですが、そうなると、根木内城の歴史についても文献上の 裏付けを得るのは困難といえます。 いずれにせよ、今日に残る根木内城の規模や遺構からみて、小金城移転後も有力 な支城として改修を加えられていることは明らかです。おそらく、天正十八年(1590) の小田原の役までは現役だったものと推測されます。 |
|
根木内歴史公園内のようす。 | |
大手の土橋と虎口。 虎口は直進できないよう少し曲がっています。 |
|
大手空堀。 | |
大手虎口脇の土塁。 | |
最南端の曲輪北辺の空堀。 | |
南から二番目の曲輪跡のようす。 | |
上富士川沿いの湿地越しに城山を望む。 | |
本丸側の住宅街。 くぼんだ道路は大手空堀跡か。 |