久留米城(くるめ)
 別称  : 笹原城、篠原城、篠山城
 分類  : 平山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 石垣、堀、井戸
 交通  : JR鹿児島本線久留米駅徒歩10分


       <沿革>
           永正年間(1504〜21)に、土豪が筑後川河畔の丘に城を築いて笹原城(篠原城)と称したのが
          はじまりとされる。その後、しばらく廃れていたものを「郡司」が天文年間(1532〜55)に再興した
          と伝わる。この土豪や郡司が具体的に何者なのかは不明である。
           天正年間(1573〜92)の初めごろには、高良山座主良寛の弟鱗圭が城主となっていた。天正
          十五年(1587)に豊臣秀吉が九州を平定すると、小早川秀包が御井郡など7万5千石を与えられ、
          久留米城を居城とした。いつごろ久留米と呼ばれるようになったかは定かでないが、他に「来目」
          や「久留目」などとも表記される。前城主鱗圭は、このときに高良山座主を継いだが、後に秀包と
          対立し、同十九年(1591)に謀殺された。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、秀包は西軍に属し、大津城攻めなどに参加した。本戦で
          西軍が敗北した後の十月、久留米城は黒田如水・鍋島直茂らの大軍に囲まれた。城に籠る兵は
          わずかで、数日もちこたえたものの、勧告を受け入れて開城した。
           秀包は改易され、田中吉政が筑後一国を与えられた。吉政は柳川城を居城に定め、久留米城
          には二男(五男とも)吉信が3万石で入った。しかし、吉信は慶長十一年(1606)に若くして没した。
          家臣を手打ちにしようとして、逆に斬られたことが原因とされる。その後の久留米城主は詳らかで
          ないが、元和六年(1620)に2代柳川藩主田中忠政(吉政の四男)が嗣子なく世を去ると、田中家
          は改易となった。同年、有馬豊氏が21万石で久留米藩を立藩し、豊氏は久留米城の改修に着手
          した。この改修はかなり大規模なものであったようで、本丸以下三の丸までを守る筑前堀は、その
          名の通り筑前福岡藩主黒田長政の助力によって築かれたものとされる。
           有馬家は11代を数えて明治維新を迎えた。

          
       <手記>
           久留米城は、筑後川と宝満川の合流点に臨む小丘上に築かれた城です。二の丸以下は、現在
          市街地のほかブリヂストンの工場や久留米大医学部などになっており、本丸のみが篠山神社境内
          として残されています。久留米は、九州の東西南北を結ぶ街道が交わる交通の要衝ではあります
          が、地勢上当初はかなり水浸しな土地だったと思われ、現在のように町が開かれるまでには相当
          な工事が必要だったものと推測されます。
           かつての久留米城本丸には、天守はないものの7基の三層櫓が建てられ、それらを二層の多聞
          櫓でぐるりと連結していたということで、とても厳重かつ壮麗な構えだったようです。本丸には篠山
          神社のほか、ブリヂストン創業者石橋正二郎氏が設立した有馬記念館(郷土資料館)があります
          (石橋氏は久留米市出身)。
           本丸の石垣等は良好に残っているのですが、それだけに二の丸以下が消滅してしまっているの
          は残念です。また、駅から城まで工場を抜けて歩いていくというのも、なんとも不思議な感じです。
           不思議といえば、久留米藩初代有馬豊氏が、なぜ21万石という破格の大領を得ることになった
          のかも、私にはまったくの謎です。競馬でおなじみの有馬記念は、この久留米藩有馬家に因んだ
          ものです。

           
 本丸南面の石垣と濠。
本丸南面の冠木御門跡。 
 本丸の篠山神社。
本丸乾櫓跡。 
 本丸艮櫓跡。
本丸大井戸。 
 本丸月見櫓の石垣。
本丸下の腰曲輪である蜜柑丸跡。 
その名の通りミカンの木が植えられていたという。 


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