大津城(おおつ)
 別称  : なし
 分類  : 水城
 築城者: 浅野長政
 遺構  : なし
 交通  : 京阪電鉄浜大津駅下車


       <沿革>
           本能寺の変に際して落城した明智光秀の居城坂本城にかわり、豊臣秀吉の命を受けた浅野長政(当時は
          長吉)によって、天正十四年(1586)に築かれた。その規模は、現在の東海道札の辻や琵琶湖疏水取水口
          あたりまでを外堀のラインとするものであったと考えられている。全体としてみれば平城に近い形態だが、堀
          に湖水を引き入れ、本丸は完全に湖上に突き出ていたようである(地図に示した緑線は推定されている外郭
          ラインを簡略になぞったもの)。大津の選地は長政によるものとされるが、軍事だけでなく琵琶湖水運の拠点
          としての大津港の機能に着目していたためといわれる。
           増田長盛、新庄直頼を経て京極高次が城主であった慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いが勃発した。同戦い
          は、天下二分の戦としては実際の戦闘は多くなかったといわれているが、大津城は数少ない激戦の舞台の
          1つとなった。九月七日からの大津城の攻防戦は、東軍(京極軍)3千対西軍1万5千と、篭城側に圧倒的に
          不利であった。
           さらに西軍は、大津城北西の長等山から大砲による砲撃を浴びせた。この轟音は京都まで響いたとされる。
          それでも城側の士気は衰えなかったが、本丸まで徐々に押し込まれた。九月十四日、高野山の木食応其
          (もくじきおうご)上人の仲介により、高次は西軍の降伏勧告を受け入れ高野山へと去った。翌十五日には
          関ヶ原で本戦が行われ、大津城攻城軍はこれに間に合わなかった。家康は、戦後処理などのために大津城
          に入って1週間ほど滞在した。高次は西軍を足止めした功により、若狭8万2千石へと加増転封された。
           荒廃した大津城は再び使用されることなく、南に天下普請で膳所城が築かれるとそのまま廃城となった。
          城攻めが砲撃戦主体へと移り変わる中で、その山地に近すぎる弱点を嫌われたためともいわれるが、実際
          には豊臣から徳川への政権移行をアピールしたものと推測される。
           大津城天守は、後に彦根城へ移築された。その際、四層四重だったものを三層三階に縮めたため、現在
          のようなずんぐりした形になったことが、解体修理の結果明らかになっている。


       <手記>
           大津城址は現在、浜大津駅や大津港を中心とした市街地のど真ん中にあるため、遺構は全く存在していま
          せん。駅から港に向かう歩道橋を渡って階段を下りたあたりに、「大津城址」を示す石碑が申し訳程度に建て
          られています。
           大津市自体は、札の辻から東海道を膳所方面に歩けば昔ながらの街並みが随所に残り、県庁所在地とは
          思えないほどのんびりと時間の流れるとても良いところです。
           ちなみに、大津は京都からJRなら2駅10分足らずで来れてしまうほど近いところです。

           

 浜大津駅を下りたところに建つ石碑。
本丸周辺(現大津港)のようす。 


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