柳川城(やながわ)
 別称  : 舞鶴城
 分類  : 平城
 築城者: 蒲池氏
 遺構  : 天守台、石垣、土塁、堀
 交通  : JR鹿児島本線久留米駅徒歩10分


       <沿革>
           戦国時代の蒲池氏の居城として知られる。蒲池氏は嵯峨源氏の流れをくみ、源融の子昇の後裔
          久直にはじまるとされる。久直が柳川市街の北の蒲池に入植して蒲池氏を称したのだが、同氏が
          いつごろ柳川に城館を築いたのかは定かでない。
           建武三/延元元年(1336)の多々良浜の戦いで蒲池武久が戦死すると、男子がなかったため、
          宇都宮久憲が武久の娘を娶って蒲池氏を継いだ。久憲以降を「宇都宮蒲池氏」ないし「後蒲池」と
          呼んで区別することもある。柳川築城はこの久憲によるものとも、5代後の治久によるものともいわ
          れるが、確証はない。
           柳川城が明確に蒲池氏の居城として史料にみられるのは、治久の孫鑑盛の代である。鑑盛は、
          大友氏麾下の筑後随一の大身領主として、また肥前の龍造寺氏に対する前線の備えとして重き
          をなした。また、鑑盛は戦国の世にあって義に篤い人物として知られ、父鑑久が主君に誅殺された
          にもかかわらず終生大友氏に尽くし、他方で謀略によって城を逐われた龍造寺家兼や、その曾孫
          隆信を領内に保護したこともある。鑑盛は、天正六年(1578)の耳川の戦いで討ち死にし、嫡子の
          鎮漣が跡を継いだ。
           鎮漣は、耳川の合戦時にすでに大友氏からの離反を考えていたとされ(戦いの前に自身の兵を
          まとめて筑後へ帰っていた)、戦後龍造寺氏に鞍替えした。鎮漣の妻が、大恩を受けたという理由
          で隆信が嫁がせた娘玉鶴姫であったことも、鎮漣の転向に影響したものと推測される。
           しかし、隆信は筑後の自領化を狙っており、とくに要である柳川に対する欲望を露わにするように
          なった。これに嫌気のさした鎮漣は今度は隆信からの離反の動きをみせたため、隆信は天正九年
          (1581)に2万の兵を率いて柳川城を囲んだ。だが、城は一向に落ちる気配をみせず、鎮連の伯父
          で隆信に臣従していた田尻鑑種の仲介で和議を結んだ。
           ところが、隆信は柳川獲得の野望を微塵も捨てておらず、和議にともなって佐賀で開いた宴席の
          翌日、鎮漣一行は隆信の兵に襲われて全滅した。蒲池家の重臣たちは、こぞって鎮漣の佐賀行き
          を止めるよう諌めたが、鎮連は執拗な岳父の誘いを断りきれないとして、覚悟の上で出立していた。
          隆信はただちに柳川攻めに移り、主を失った城はまもなく制圧された。このとき、玉鶴姫は鎮漣の
          後を追って自決し、筑後の諸国人も隆信の所業に強く反発し、百武賢兼など龍造寺家重臣のなか
          にも疑念を抱くものがあった。結果、隆信は柳川城を手に入れることはできたものの、家中の結束を
          弱め、以降の勢力拡大は困難となった。
           柳川城には重臣鍋島直茂が入ったが、天正十二年(1584)に隆信が沖田畷の戦いで敗死すると、
          直茂は隆信の子政家を輔弼するために佐賀城へ移り、代わって龍造寺家晴が城主となった。家晴
          は蒲池家への恩義に則り、隆信に秘して鎮漣の甥貞久を探し出して召し抱えた。
           天正十五年(1587)に豊臣秀吉が九州を平定すると、大友家臣立花統虎(宗茂)が、柳川城13万
          2千石を独立して与えられた。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、宗茂は西軍に属して大津城
          攻めに参加したが、本戦敗北の報を受けて柳川へ帰還した。九州では鍋島直茂や黒田如水、加藤
          清正らが西軍の諸大名を攻撃しており、柳川城も直茂らの大軍に囲まれた。柳川城の堅牢ぶりや
          宗茂の猛勇を知る3将は宗茂を説得し、降伏開城を受諾させた。宗茂は改易され、田中吉政が筑後
          一国32万石余に封じられた。ちなみに、宗茂の妻は立花道雪(戸次鑑連)の娘として有名なァ千代
          だが、夫婦仲は良くなかったといわれ、彼女は宗茂の柳川城時代を通じて城の南の宮永に居館を
          建てて別居していた。
           吉政は、豊臣秀次の付家老として近江八幡城の城下町形成などに深く携わり、土木の才能を広く
          認められた人物であった。吉政のもとで柳川城は近代城郭として大改修され、現在に残る縦横無尽
          の掘割の基礎をを築いた。
           元和六年(1620)、吉政の子忠政が嗣子なく没すると、田中家は2代で改易となった。代わって、
          棚倉3万5千石に取り立てられていた宗茂が、10万石余で柳川城主に返り咲いた。以後、立花家が
          12代を数えて明治維新を迎えた。

          
       <手記>
           柳川城については、表記は「柳河」とも書かれます。堅城で知られる柳川城ですが、建物は明治
          五年(1872)の火災で焼失し、石材は周辺の造成に転用されたため、現在まで残る遺構はほとんど
          ありません。本丸跡の柳城中学校南東隅に、天守台とされる土塁と石垣の一部が残されています。
          古写真や絵図から天守は五層の壮麗なものであったことが分かりますが、それにしてもこの土塁は
          大きすぎるように見えるので、おそらく天守および本丸の土塁とするのが正しいかと思われます。
           このほかの遺構としては、何といっても水路を兼ねた堀でしょう。上の地図からも、内外2重の堀が
          ほぼ完全に残っているようすがうかがえ、一部は横矢や桝形虎口状にすらなっています。この地方
          独特のこうした水路網は「クリーク」として知られ、柳川のクリークといえば、我々の世代なら社会科
          の教科書でおなじみだと思います。柳川の町にとっては重要な観光資源で、クリークめぐりの小舟が
          あちらこちらに浮かんでいます(オフシーズンだったのか動いていませんでしたが)。このクリークは
          河川を通じて海とつながっているものと思われ、潮の満ち引き同様水位が上下します。
           城の南東隅にある松濤園はかつての藩主別邸であり、現在は旧藩主立花家が経営する旅館や
          料亭となっています。実は、せっかく遠くまで来たのだしと奮発して泊まってみたのですが、客室は
          すべて園内付属の普通の観光ホテルにあるようでした。園内には旧藩主邸のほか明治に建設され
          た西洋館や立花家の資料館などがあり、旅館業のほかにも観光業や料理、ブライダルなどで収益
          を上げているようです。
           余談ですが、柳川の名物の1つに鰻のせいろ蒸しがあります。関東風にしろ関西風にしろ焼くのが
          普通の鰻のこれまた違う味わい方として楽しめます。この鰻の店が多く並んでいるのが、松濤園西
          の沖端町と呼ばれる一帯なのですが、注意としてここの店はとにかく閉まるのが早いです。7時半
          ころに出かけたところ、全店がラストオーダーを終えて閉まってしまっていました。

           
 柳川城址天守台跡。
天守台土塁の上のようす。 
 本丸の石垣跡か。
 一度積み直したものか関係ない新しいものか。
同じく本丸石垣。 
 柳城中学校南西隅。
 本丸堀跡か。
松濤園庭園。 
 松濤園南辺の堀。
松濤園西辺の堀。 
 松濤園北東から北に延びる堀。
おまけ:鰻屋の建ち並ぶ沖端町。 


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