来島城(くるしま)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 村上氏
 遺構  : 曲輪跡、柱穴
 交通  : JR予讃線今治駅よりバス
       「渡し場」バス停下車。来島まで渡し船利用。


       <沿革>
           村上水軍三家の1つ、来島村上氏の本拠である。村上氏の出自については、河内源氏
          庶流信濃村上氏の分流、ないしは村上源氏の末裔といわれている。また、伊予越智氏の
          庶流とする説もあり定かでない。来島村上氏初代についても、村上吉房または村上顕忠
          と2つの名が伝わっていてはっきりしない。ただし、村上三家の初代は三兄弟であったこと、
          その父ないし祖父の村上師清は南北朝時代に活躍した村上義弘の養子であるという点
          では一致している。師清については、北畠顕家の子とする説と、信濃村上氏の出とする
          説がある。北畠氏は、村上源氏の後裔である。三家分立以前の村上氏の拠点は大島と
          伯方島にあったと考えられている。来島城は来島村上氏の成立と同時に築かれたものと
          思われ、一般には応永年間(1394〜1427)ごろのこととされる。
           戦国時代中期の当主村上通康は伊予守護河野氏の重臣として活躍し、河野通直(弾正
          少弼)の娘を娶った。通直は信頼する通康に家督を譲ろうとしたが、これに反発した分家
          の予州家当主の河野通政(晴通)らによって居城の湯築城を逐われ、来島城に逃れた。
          天文十二年(1543)に晴通が若くして急死すると、晴通の弟通宣(左京大夫)が跡を継い
          だが、後見として通直が返り咲いた(来島騒動)。
           近年では、晴通・通宣兄弟はともに通直の実子で、来島騒動は外交方針をめぐる家中
          の対立であったとする説が有力視されている。また通宣の養子として家督を継いだ通直
          (伊予守)についても、従来河野氏庶流池原通吉の子といわれていたが、実際には通康
          の子で母親が通宣に再嫁したものとする説も呈されている。
           永禄十年(1567)に通康が病没すると、四男の通総が跡を継いだ。このころ河野氏は
          毛利氏に従属したため、来島村上氏も毛利氏に属した。しかし天正十年(1582)、通総は
          織田氏に寝返り、来島城は毛利方に留まった能島村上武吉に攻められた。支えきれなく
          なった通総は城を脱出し、中国方面の担当司令官であった羽柴秀吉を頼った。その後の
          来島城については定かでない。
           天正十三年(1585)の秀吉による四国平定により、伊予一国は毛利一族の小早川隆景
          に与えられた。同十五年(1587)に隆景が筑前に移封となると、来島周辺は福島正則の
          所領となった。
           翌天正十六年(1588)に海賊禁止令が出されるころまでには、廃城となっていたものと
          推測される。

       <手記>
           村上水軍三家の拠点のうち、因島はほぼ1島で市を形成できるほど大きな島ですが、
          来島と能島は海峡の隘路にぽつんと浮かぶ小さな孤島です。無人島の能島に対して、
          来島は十数戸ながら人が住んでいるため、四国本土の波止浜から渡船が出ています。
          現在は有人島ですが、当時村上氏自体は島に常住はせず、対岸の波方に平時の居館
          があったそうです。
           小さな島なので、港に着けば迷うことなくてっぺんの主郭にたどり着けるでしょう。主郭
          には電波塔と本丸跡の看板が建っていて、曲輪内はきれいに刈り込まれていました。
          ここからは、行き交う船やしまなみ海道の美しい眺望が開けています。地図上は、城兵
          の目にまったく触れずに来島海峡を通過することは不可能のようです。
           主郭とその南一段下の曲輪以外は、藪に埋もれていたり畑になっていたりと、明確に
          曲輪跡なのかどうか判別できません。ところどころに石垣がみられますが、おそらくは
          すべて後世のものでしょう。
           もっとも水軍城らしい遺構といえるものが、島の北東岸のピット穴群です。見つけ方に
          ちょっと難があるのですが、島に1本しかない幹線道をとにかく北東の端っこまで行き
          ます。そこから護岸堤防をちょいと失敬して乗り越え、さらにもう少し行くと現れます。
          おそらく干潮時ならもっと鮮明に見つけられたのでしょうが、私が訪れたときは岩礁に
          それっぽい穴をちらほら目にするのが精一杯でした。
           また、水軍との関連で重要なのは、来島海峡の潮流のすさまじさです。「一に来島 
          二に鳴門」と謳われるほどの難所だそうで、まるで大河のようなスピードで潮が流れて
          います。しかも、手前では右から左に、その向こうでは左から右に逆向きになっている
          ところも少なくなく、当時の船がここを水先案内人なしに通過するのはちょっと難易度が
          高すぎるのではないかと思いました。接岸しようとやってくる渡し船は、誇張などでは
          なく本当にドリフトを決めながら波止場に突っ込んできます。
           ところでこの渡船は、波止浜港を出ると来島→小島→馬島の順に立ち寄り、馬島に
          着くとすぐに帰ってきます。そのため、来島での滞在可能時間はほんの数十分です。
          これを逃すと、次は2時間後ぐらいになります。もしダイヤが改正されても、おそらくこの
          間隔はほとんど変わらないでしょう。数十分では少ないですが、2時間では多すぎると
          いったところで、城跡目当ての人間には歯がゆいところです。

 渡し船から来島全景を望む。
本丸跡。 
 本丸跡先端のようす。
本丸からの眺望。 
 本丸下の曲輪。
城址碑。 
背後の石垣は、たぶん無関係でしょう。 
 ピット群。
同上。 
 おまけ:接岸中の渡船より。
 海流のすごさ、伝わりますか?


BACK