湯築城(ゆづき)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 河野通盛
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁、石積み
 交通  : 松山市電道後公園電停下車


       <沿革>
           建武二年(1335)、伊予守護の河野通盛によって新たな居城として築かれた。それまでの
          本拠は風早郡河野郷(旧北条市河野)にあったとされる。通盛が湯築城に移った背景には、
          後醍醐天皇が通盛の所領の一部を没収し、庶流の得能通綱を河野氏惣領としたことが強く
          影響していると考えられる。同年十二月に足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権に反旗を翻す
          と、通盛もこれに応じて所領回復を図った。すなわち、伊予国内の争乱に際して道後平野を
          押さえる必要性に駆られての築城・移転であったと推測される。
           正平九/文和三年(1354)、伊予守護は通盛から細川頼之に替えられた。同十七/康安
          二年(1362)、従兄弟の細川清氏追討の幕命を受けた頼之は、通盛に参戦を命じた。しかし、
          通盛は頼之のこれ以上の勢力拡大を望まなかったため、要請を無視して家督を息子の通朝
          に譲り、河野郷へ隠棲した。戦いの長期化による両細川氏の疲弊を期待した通盛であったが、
          目論みに反して戦いは頼之の圧勝に終わった。通盛の態度に激怒した頼之は、同十九/
          貞治三年(1364)に河野氏討伐に乗りだした。通朝は世田山城で討ち死にし、まもなく通盛も
          病死した。湯築城も、頼之によって攻め落とされたものと思われる。
           通朝の遺児通直は、九州へ逃れて南朝に身を投じ、正平二十三/応安元年(1368)ごろに
          伊予に上陸して、湯築城をはじめかつての地盤を回復したとされる(『予章記』)。通直は康暦
          元/天授五年(1379)に頼之と戦って討ち死にしたが、その子通義は頼之と和睦した。以後、
          伊予守護職は河野氏の世襲となり、湯築城は守護所として安定した。天文四年(1535)ごろ、
          河野通直(前出の通直とは別人。弾正少弼)によって湯築城を囲む外堀が築かれたとされる。
          なお、通義の死後、河野氏は本家と湊山城を本拠とする予州家との間で家督争いが続いた。
          湯築城は何度か予州家によって奪われたともいわれるが、詳細は定かでない。
           天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉の四国攻めに際し、河野氏は去就を明らかにしない
          まま湯築城に立て籠もった。伊予に攻め入った豊臣勢の小早川隆景は、河野通直(伊予守。
          弾正少弼とは別人)を説得し、通直は籠城から1か月後に降伏した。このとき通直は、城内の
          子供の助命を嘆願するため、自ら城を出て隆景に謁見したと伝わる。
           戦後、河野氏は改易となり、伊予は隆景に与えられたが、湯築城の扱いについては定かで
          ない。天正十五年(1587)に隆景は筑前へ移封となり、代わって福島正則が伊予北部11万石
          を与えられた。正則は国分山城を居城としたため、遅くともこの時までには、湯築城は廃城と
          なったと考えられている。

       <手記>
           道後温泉のすぐ南にある丘が湯築城址です。道後温泉は『日本書紀』にも記載のある古湯
          なので、ここを押さえることに一定の価値があったのかなという気もさせます。地理的には、
          重信川とともに道後平野を形成する石手川が山間部から平野部に出る喉口部に位置して
          います。河野氏というと水軍が有名ですが、湯築城は海からはいささか離れています。水軍
          の拠点は湊山城下の三津にあり、両城は6kmほど離れています。このことが、本家と予州家
          の分立を生んだとする見方もあるそうです。
           湯築城自体は独立丘とはいえ至って小さな山で、要害性はほとんど認められません。それ
          でもここを守護所とし続けたということは、地理的な面を重視したということなのでしょう。一応、
          もう1つ利点として、湯築から石手川沿いに山間部を遡り、水が峠を越えて伊予国府や来島
          海峡に出るルートを押さえることができます。
           現在城跡は一部がグラウンドになっているものの、外堀の内側が道後公園として整備され
          ています。とくにかつて動物園のあったエリアは近年発掘調査が行われ、その成果が地表
          復元されていたり、一部建物が推定復元されていたりしています。景観や遺構に配慮した
          形で資料館も建てられていて、史跡公園としてはかなりお手本になる好例ではないかと思い
          ます。
           他方で丘の上の詰城部は旧来の市民公園のまま手付かずとなっています。基本的には、
          山頂の本壇とその下の杉の壇およびその他の小曲輪から成っていたようで、あまり戦闘の
          用に立ったとは思えません。山頂の展望台からも、当時海が見えたかどうかというくらいです。
          とくに、河野氏の軍事力の源泉である水軍の拠点三津が望めないというのは、たしかに致命
          的なようにも感じます。
           湯築城は守護所としては規模も大きく調査結果もたいへん興味深いものです。とはいえ、
          「名城」かといわれると話は別で、私にはここが日本100名城に選ばれている理由がわかり
          ません。

 本壇跡と展望台。
展望台からの眺望。 
右手の山頂に松山城天守が見えます。 
 杉の壇跡。
復元土塀と資料館。 
 復元武家住宅その1。
その2。 
 搦手門跡。
内堀と内堀外側の土塁。 
 城内武家屋敷群跡の地表復元部。
外堀の土塁。 
 土塁断面の展示。
土塁隅の石積みと水溝復元部。 
 遮蔽土塁。
大手門跡。 
 外堀のようす。


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