桑原城(くわばら) | |
別称 : 高鳥屋城、水晶城、矢竹城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 諏訪氏ないし桑原氏 | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀 | |
交通 : JR中央本線上諏訪駅よりバス 「四賀出張所」バス停下車徒歩20分 |
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<沿革> 諏訪氏によって築かれたとみられているが、築城年については明らかでない。 『保元物語』に諏訪武士の桑原氏が登場することから、『日本城郭大系』ではこの 桑原氏によって築かれた可能性も示唆している。桑原氏は、文明十五年(1483) の文明の内訌に際して惣領家側として桑原から出陣している。しかし、城の存在 については詳らかでない。 桑原城が歴史の表舞台に現れるのは、天文十一年(1542)の武田晴信による 諏訪侵攻に際してである。諏訪頼重勢は七月一日に犬射原へ出撃したものの、 武田方に与し杖突峠を越えてきた高遠頼継勢に側面を脅かされたため、やむなく 野戦を諦め居城の上原城へと撤退した。翌二日、武田勢に上原城を包囲された 頼重は、その夜のうちに城に火をかけて桑原城へ入った。三日早朝、このことを 知った武田勢は桑原城を攻めるべく進軍するが、諏訪勢は城を打って出て一度は これを撃退した。その夕方、翌日に備えて城下の検分をしようと頼重が「つるね (西麓の足長神社へ続く尾根とされる)」を下りていったところ、城を捨てて逃げた と家臣が勘違いしたため、将兵のほとんどが逃亡してしまった。結局その夜は、 頼重以下わずか20人ほどで明かしたといわれる。翌四日、頼重は武田方の降伏 勧告を受け入れた。頼重と弟の頼高は甲府に送られ、同月二十日に自害を強い られた。 桑原城はこのとき廃城となったとみられているが、定かではない。 <手記> 諏訪惣領家滅亡の地として知られる桑原城は、諏訪盆地に雄々しくせり出した 永明寺山系支峰の頂上にあります。『大系』では、平安時代末の桑原氏の城で あった可能性を示していますが、桑原城は比較的高所にあり、平安時代末の地方 武士がこのようなところに城を築くものかかなり疑問です。 城へは、北東麓か南東麓から登山道が整備されています。とくに北東麓からの 道は、入り口に説明板が設置され、車も通れるくらいに舗装されているため、登り やすいです。どちらの道を上っても、城裏手の堀切にたどり着きます。この堀切は、 城の東端を成して尾根を断ち切るものです。上の地図にあるとおり、城の南西の 開敷院と、北西の足長神社裏手からも登城路があるとされています。このうち、 開敷院からの道は、もはや消滅していて分かりませんでした。結局私は足長神社 裏手からの道を登ったのですが(帰りは北東麓へ出ました)、西側からの山道は どちらも二の郭西の帯曲輪へ出ます。ここは完全にほったらかしで、雑草と雑木、 さらには茨が生い茂り、無傷で主郭へ到達できる確率は低いです。 城は主郭と、堀切を挟んだ西側の二の郭を主体としています。それぞれ下段に 帯曲輪を従えていて、全体として見ると杵のような形をしています。主郭と二の郭 は樹木が整理されていて、眺望の開けた気持ちのよい空間となっています。主郭 東側には土塁が残り、その手前に説明板が設置されています。主郭下の帯曲輪 (東曲輪)には首塚と呼ばれる高まりがあります。その東は、少し下って城東端の 堀切に至ります。南西の尾根筋にも曲輪が連なっているということですが、さきの とおり藪に覆われているため、見学は困難です。 |
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桑原城址を望む。 中央少し右の茶色に禿げた部分が主郭。 |
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主郭のようす。 奥に土塁が見えます。 |
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主郭から空堀越しに二の郭を望む。 | |
主郭東の帯曲輪(東曲輪)のようす。 | |
東曲輪の首塚。 | |
東端の堀切。 |