上原城(うえのはら)
  別称  : 板垣城
  分類  : 山城
 築城者 : 諏訪氏
  遺構  : 曲輪跡、土塁、堀切、居館跡
  交通  : 中央高速道路諏訪ICより車で20分


       <沿革>
           諏訪総領家の居城である。地元では「うえのはら」もしくは「かみのはら」と呼ばれるが、
          一般には「うえはら」と読まれている。築城時期は詳らかではないが、諏訪氏が諏訪大社
          の祭祀を司る大祝家と、軍事や政治を預かる総領家に分裂した15世紀に遡るとされる。
          記録には、康正二年(1456)に初めて登場するとされる。
           天文十一年(1542)、甲斐の武田晴信(後の信玄)はそれまでの諏訪氏との同盟を破棄
          し、諏訪一族の高遠頼継と結んで、妹婿の諏訪頼重を攻めた。頼重は上原城で兵を集め
          たが、不利を悟ると城に火を放ち、夜陰に紛れて北西の桑原城に移った。しかし、こちらも
          すぐに囲まれたために、まもなく頼重は降伏し、甲斐で自害させられた。
           翌天文十二年(1543)、諏訪郡代として派遣された重臣板垣信方は、焼失した上原城跡
          を再興し、山麓の諏訪氏居館跡に新たに館を設けた。このため、の館跡を指して「板垣平」
          または「板垣城」とも呼んでいる。
           信方が上田原の戦いで戦死すると、天文十八年(1549)に諏訪の代官所は茶臼山城
          移された。ただし、その後も上原城は戦略上の拠点として機能し続けたと考えられている。
           天正十年(1582)、武田氏の滅亡とともに廃城とされた。


       <手記>
           上原城は、諏訪盆地の中央にせり出す永明寺山の支峰金比羅山に築かれた、峻険な
          山城です。現在は、城の裏手まで車で登ることができます。その道の途中には諏訪氏の
          居館でもあった板垣平があり、広大な館跡や家老屋敷と呼ばれる腰曲輪が見られます。
           城は、山頂の主郭を中心に二の郭、三の郭が帯状に取り巻いていて、二の郭の物見岩
          をはじめところどころ岩肌の露出した堅固なつくりになっています。城の背後は、主郭裏の
          巨大な堀切や竪堀、土橋などで幾重にも切られています。
           総じて、遺構の保存状態は良好といえます。武田氏の改修が大きく入っているとはいえ、
          諏訪総領家の居城としての威容を今に伝えているように感じます。


           
 上原城遠望。
  主郭の様子。 
 二の郭の物見岩。
 主郭背後の堀切。 
 二条の竪堀。
山麓の居館跡。通称板垣平。 


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