前山城(まえやま)
 別称  : 伴野城
 分類  : 山城
 築城者: 伴野光利か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR小海線中込駅からバスに乗り、
      「前山」下車徒歩5分


       <沿革>
           『洞源山貞祥寺開基之由』によれば、伴野時長の子の跡部長朝が築いたとされる。
          時長は源頼朝に仕えた小笠原長清の子で、伴野荘の地頭職を得て伴野氏を称した。
          長朝は千曲川沿いの跡部郷が本貫地のため、前山に城を築く特段の理由は見当た
          らない。長朝には三子があったが、その後の跡部氏については、甲斐跡部氏が台頭
          するまで動向が明らかでない。
           今日では、文明年間(1469〜87)ごろに伴野光利によって築かれたとする説が有力
          である。このころの伴野氏には、伴野城(野沢城)の野沢伴野氏と、前山城を居城と
          する前山伴野氏の2流があったとされている。前山伴野氏は光利の代に野沢伴野氏
          から分家したとみられているが、伴野氏の系譜については不明な点も多い。『諏訪
          御符礼之古書』によれば、同十六年(1484)に「伴野野沢弓箭出来」とあり、両家が
          合戦に及んだことがうかがえる。同書には、延徳元年(1489)に「伴野兵部少輔貞昌
          代官野沢源左衛門友則」とあり、この争いは前山伴野氏が勝利し、野沢伴野氏の方
          が分家扱いとなったものとみられている。
           伴野氏は同族の大井氏と長年争っており、同じく大井氏と対立する甲斐の武田氏と
          結んでいた。天文九年(1540)に武田信虎が重臣板垣信方を佐久郡に送った際には、
          前山城を拠点として提供したともいわれている。『高白斎記』によれば、同十七年(15
          48)に「臼田大雨前山責落ス 敵数百人被為討取」とあり、伴野氏が明確に武田氏に
          臣従したのはこのときと考えられる。
           天正十年(1582)の天正壬午の乱に際して、伴野氏は北条氏に属した。前山城は
          徳川方の依田信蕃に攻め落とされ、当主の伴野信守が討ち死にした。これにより、
          大身領主としての伴野氏は滅ぶこととなり、乱の終結とともに、前山城も廃城となった
          ものと思われる。


       <手記>
           前山城は蓼科山・八ヶ岳山系から派生する裾野の末端に位置する峰の先端にあり、
          ます。北西側は急峻なものの、北東から南西にかけては比較的緩やかで、必ずしも
          険しい山とはいえません。ですが、眼下の山手筋には前出の貞祥寺があり、また東の
          片貝川沿いは低湿地だったということで、要害性や交通上の利便性は小さくなかった
          ものと思われます。
           登城口は、東麓の県道沿いと南西側谷筋の伴野神社・前山寺の3か所あるようで、
          私は東麓から登りました。看板や説明板があるので、こちらが最も分かりやすい入口
          と思われます。
           東から登ると、竹藪を抜けて九十九折れに道が続き、途中に腰曲輪や虎口のような
          地形を脇目にします。しばらく上がると明確な平坦地が現れますが、広さはあるものの
          防衛上の工夫などには乏しく、武田氏や北条氏による戦国後期的な改修は、受けて
          いないように見受けられます。
           二の丸の背後に1条堀切があり、その向こうの三の丸の先には二重堀切があるそう
          なのですが、こちらは体調的な理由で行けませんでした…。訪れやすい城跡なので、
          また佐久を巡るときに見学できればと思っています。

           
 本丸のようす。
本丸からの眺望。 
 二の丸のようす。
二の丸下の腰曲輪。 
 二の丸背後の堀切。
本丸東側下の曲輪。 
 さらにその1段下の曲輪。
 東麓から登る道筋。 
 腰曲輪(奥)と虎口か。
東麓の登城口目印の看板と説明板。 


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