伴野城(ともの)
 別称  : 伴野館、野沢城、野沢館
 分類  : 平城
 築城者: 伴野時長か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR小海線中込駅徒歩15分


       <沿革>
           小笠原氏庶流伴野氏の居城とされる。伴野氏は、源頼朝に仕えた小笠原長清の子の
          時長が伴野荘に拠ったことにはじまる。伴野城は時長の館に端を発するとされているが、
          確証はない。
           時長の兄の小笠原長経が比企能員の変で失脚すると、時長の伴野氏が小笠原氏の
          嫡流とされた。しかし、時長の孫長泰は弘安八年(1285)の霜月騒動で安達氏に与して
          敗れ、処刑された。小笠原氏の嫡流も再び長経の系統に移り、伴野氏は没落して伴野
          荘も北条氏に奪われた。長泰の三男泰房は、三河国太陽寺荘に逃れ、寺部城主幡豆
          小笠原氏の祖となったとされる。
           建武二年(1335)、伴野荘領主の大徳寺が伴野長房(出羽弥三郎)の濫妨狼藉を止め
          させるよう建武政権に訴えている。長房は長泰の孫とされ、霜月騒動以降も伴野氏の
          一族が荘内にとどまっていたものとみられる。ただし、この間の伴野館の扱いについては
          不明である。長房の子長信は、明徳三年(1392)に将軍足利義満の相国寺落慶供養の
          先陣髄兵を務めており、この2代のうちに伴野氏は勢力を回復し、伴野城に復帰したもの
          と推測される。
           このころの伴野氏には、伴野城(野沢城)の野沢伴野氏と、前山城を居城とする前山
          伴野氏の2流があったとされている。前山城は、『洞源山貞祥寺開基之由』によれば時長
          の子の跡部長朝が築いたとされるが、文明年間(1469〜87)ごろに伴野光利によって
          築かれたとする説もある。後者が正しいとすれば、前山伴野氏は光利の代に野沢伴野氏
          から分家したことになる。『諏訪御符礼之古書』によれば、同十六年(1484)に「伴野野沢
          弓箭出来」とあり、両家が合戦に及んだことがうかがえる。同書には、延徳元年(1489)
          に「伴野兵部少輔貞昌 代官野沢源左衛門友則」とあり、この争いは前山伴野氏の勝利
          に終わったものとみられている。
           その後は、野沢伴野氏が前山伴野氏の分家扱いとなり、野沢城も前山城の支城と
          なったものと考えられている。伴野氏は同族の大井氏と長年争っており、同じく大井氏と
          対立する甲斐の武田氏と結んでいた。『高白斎記』によれば、天文十八年(1549)六月
          に「伴野左衛門方始て出仕」とあり、武田信玄が塩尻峠の戦いに勝利したのを受けて、
          正式に臣従したものとみられている。
           天正十年(1582)の天正壬午の乱に際し、野沢城は徳川方の依田信蕃の一族依田
          肥前守に攻め落とされたとされる。前山伴野氏も信蕃によって攻め滅ぼされ、野沢城も
          破壊された。これにより城館としての役割は終えたが、江戸時代には天領の代官所や
          岩村田藩の役所などが置かれた。


       <手記>
           伴野城跡は江戸時代の佐久甲州街道野沢宿の中心部にあり、今は史跡公園として
          整備されています。南東部を除く主郭の土塁の3分の2ほどが残され、その周囲には
          堀の跡も巡っています。また、土塁の南西端には大伴神社が鎮座しています。
           現在の遺構は戦国時代末期のものと思われ、当時の城館のようすをうかがうのに
          格好の城跡といえるでしょう。主郭の外側には、おそらくもう一重二重曲輪が巡って
          いたものと推測されます。
           地勢的には、千曲川に近いものの要害性が高いとはいえません。それでも、交通の
          要衝であると同時に千曲川の向こうは大井氏領だったものと思われ、防衛拠点として
          伴野氏にとってはかなり重要な城だったと考えられます。

           
 城内のようす。
堀と土橋跡。 
 土塁。
土塁を転用した大伴神社。 
 北東隅の土塁と堀跡。
北辺の土塁と堀跡。 
 西辺の土塁と堀跡。


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