馬籠城(まごめ)
 別称  : 丸山城
 分類  : 平山城
 築城者: 島崎重通か
 遺構  : なし
 交通  : 中央道神坂PAバス停下車徒歩20分


       <沿革>
           木曽氏家臣島崎氏の城。現地の案内板によれば、築城は永禄年間(1558〜69)とされるが、詳細は
          不明である。
           天正十二年(1584)、羽柴秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の陣が始まると、木曽領主木曽義昌
          は秀吉に与し、家臣山村良勝に妻籠城を、島崎重通に馬籠城を守らせた。家康方の攻略軍の将である
          菅沼定利・諏訪頼忠・保科正直らは、7千の兵を率いて清内路峠から侵攻し、現在の馬籠宿の北に陣
          を張った。その大軍を見て恐れをなした重通は戦わずして城を放棄し、夜陰に紛れて妻籠城へと走った。
           この戦いの後、馬籠城は廃城になったものと思われる。


       <手記>
           馬籠城は、中山道馬籠宿の南、荒町集落内の独立小丘上にあったとされています。現在は、中山道
          沿いの案内板で存在を知るのみで、遺構らしきものは見受けられませんでした。
           家康軍の馬籠城攻めにおいては、馬籠宿の北に陣を張った(今も残る宿場の北のはずれに「上陣場」
          と呼ばれる眺望の開けた場所があります)と伝えられています。しかし、徳川軍は上記の通り清内路峠
          を越えて、木曽へ侵入したとされています。とすれば、順当に考えれば徳川軍の第一目標は妻籠城に
          あると思われます。したがって、実際には、重通は徳川軍を目にすることなく、清内路峠を越えたという
          報とその兵力を知った時点で、木曽本領と分断されてしまうことを恐れ、妻籠城へ合流して一点防御に
          徹することにしたのではないかと、個人的には推察しています。
           さらにいえば、この馬籠城は、徳川の大軍を迎え撃つのには余りにも貧弱な丘に過ぎないように感じ
          られます。このときに重通が拠った馬籠城が、本当にこの丸山城なのか、少々検討が必要なように思い
          ます。
           ちなみに、この島崎重通が、文人島崎藤村の祖先とされています。


 馬籠城址案内板。
馬籠宿南端付近から馬籠城を望む。 


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