妻籠城(つまご) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 木曽氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口跡 | |
交通 : JR中央本線南木曽駅よりバス 「妻籠」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 『日本城郭大系』には、沼田右馬介家仲や木曽家村が築いたとする伝承を載せている。 家村は、記録にみられる戦国期木曽氏の最初の人物で、南北朝時代に足利尊氏に従って 活躍したとされる。家仲は家村の祖父と伝わる人物で、上野国沼田に住していたことから 沼田氏を称していたとされるが、伝承上の人物であり、当時の資料からは存在を確認でき ない。一般に家村が尊氏から木曽谷を与えられ、沼田氏から木曽氏へと改称したとされる ため、家仲が実在したとしても、妻籠城の築城者にはなり得ないとみられる。 また当時の木曽谷は大吉祖荘と小木曽荘の南北2つに分かれており、それぞれ信濃国 と美濃国に属していた。家村が与えられたのは大吉祖荘とされ、その支配の足跡は木曽 福島以北でしか確認できない。後述する妻籠氏は、美濃守護から命令を受けているため、 かつての妻籠は美濃国、すなわち小木曽荘に含まれていたと考えられている。したがって、 家村が妻籠城を築いたとする説についても怪しいといわざるを得ない。 永享四年(1432)、幕府の命を受けた美濃守護土岐持益が、妻籠兵庫助に御厩材木を 供出させている。天文二年(1533)に妻籠氏のもとに宿泊した醍醐寺理性院の僧厳助の 『厳助往年記』によれば、このときの妻籠氏は木曽氏の一族であったとされる。妻籠城は この妻籠氏の持ち城であった可能性も指摘できるが、同氏の居館は三留野に置かれて いたともいわれ、詳しいことは不明である。 妻籠城が歴史の表舞台に登場するのは、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いに 際してである。この戦い以前、妻籠城は木曽義昌によって大規模な改修を受けたとされる。 おそらく、織田信長の脅威に直接晒されるようになった天正三年(1575)の岩村城の陥落 から、義昌が織田氏に通じた同十年(1582)の間のことと思われる。 小牧・長久手の戦いで、義昌は羽柴秀吉に通じ、徳川家康と対立した。本戦での両軍の 対峙も終盤にさしかかった天正十二年九月、家康配下の菅沼定利・諏訪頼忠・保科正直 率いる7千の兵が、清内路峠を越えて木曽に侵入した。馬籠城に篭っていた木曽氏の将 島崎重通は、これを見て戦わずして城を放棄し、妻籠城を守る山村良勝に合流した。それ でも籠城方の兵力は300ほどであったとされるが、良勝は城を守りきった。同年十一月に 本戦の講和が成立しているが、それまで2か月間籠城戦が続いたのか、それ以前に定利 らが攻城を諦めて撤退したのかは詳らかでない。 和議の条件として、信濃国は改めて家康の領国として確認され、木曽氏は徳川家臣に 収まった。天正十八年(1590)に家康が関東へ移封となると木曽氏もこれに従い、下総国 阿知戸に所領を与えられた。家康は義昌の離反や妻籠城での敗戦を根にもっていたとも いわれ、山林資源に恵まれた木曽から海沿いの寒村である阿知戸1万石への所領替えは 懲罰的なものであったといわれる。 木曽谷は太閤蔵入地となり、犬山城主石川貞清が代官となった。豊臣政権での妻籠城 の処遇については明らかでない。 『木曽旧記録』には、「慶長五年石賊征伐之時 九月十七日台徳院様此城御止宿有之 御城番小笠原左衛門佐也 大坂御陣後破壊」とある。これが正しければ、関ヶ原の戦いに 際して徳川秀忠が妻籠城に滞在し、慶長二十年(1615)の大坂冬の陣から翌元和二年 (1616)の一国一城令の間に廃城となったと考えられる。ちなみに、秀忠は妻籠で関ヶ原 本戦での戦勝の報に触れたとされる。 <手記> 妻籠城は、南に妻籠宿、北に三留野宿を望む半独立状の山塊の上に築かれています。 東側は中山道の小さな峠となっていて、それ以外の三方は深い谷に囲まれた急崖です。 峠脇の登城口からはあまり比高差がありませんが、その他の三方から攻めるのはかなり 困難といえます。また旧中山道にせよ、木曽川沿いの山口路にせよ、兵を率いて木曽に 入ろうとすれば、必ず妻籠城の眼前を通らなければならず、避けては通れないという意味 では、要害であるうえに馬籠峠以上の要衝といえます。 築城時期については不明ですが、深い川谷に囲まれてせり出した鉢伏状の山塊という 立地は岩村城と似ており、岩村城が遅くとも南北朝時代に築かれていたとみられている ことを鑑みれば、妻籠城もそのころに築かれた可能性は高いように思われます。 峠の西の城跡には2つのピークがあり、城山山頂の本丸域と峠の間にある小さなピーク は「小天守」と呼ばれています。小天守と城山の間には土橋がありますが、当時は完全に 掘り切られ木橋が架けられていたそうです。峠からの登城路は小天守のピークを迂回して 土橋に至りますが、ここから振り返って丘をよじ登ると小天守山頂につきます。小天守には 一応土塁の痕跡がありますが、実際に櫓が乗っていたかどうかは判断しかねます。また 小天守の峠側には立派な空堀があります。 小天守から登城路を挟んだ南側の尾根筋にも、土塁の痕跡が認められます。そこから 登り着いた先は虎口状になっていますが、どのように曲輪形成されていたのかは、藪が ひどくてよくわかりませんでした。 本城域の縄張りは比較的シンプルで、山頂の主郭の周囲に帯曲輪が1段と、その外側 に2条の空堀がぐるりと囲んでいます。本城域の北東には、舌状にせり出した出丸があり、 『大系』ではこれを二の郭としています。二の郭は上下2段程度に仕切られていますが、 削平は他の曲輪に比べると曖昧です。 一方、城山から中山道を挟んだ反対側の山肌を登っていくと、「妻の神土塁」と呼ばれる 竪土塁があります。この土塁は、『大系』所収の縄張り図とは両端の位置や形状が合わ ないので、おそらく半分ほどは失われてしまっているものと思われます。それでも、一直線 にかなりの長さが残っています。ただ、一体どのような目的で築かれた土塁なのかは全く の謎です。峠の稜線から外れたところにあるため、純粋に防衛のためというわけではなさ そうですし、そもそもこれだけ長大な防衛線を守備するには、木曽氏程度の兵力ではおそ らく不足です。また、土塁の防御面が、木曽谷側である北を向いているのも理解に苦しみ ます。あるいは後世に獣除けのためにでも作られたのではないかとさえ勘ぐってしまうほど、 城のセオリーからは外れた土塁といえます。 さて、今日では妻籠城址は妻籠宿に付随する史跡という位置付けにあります。中山道の 妻籠〜馬籠間は、実際に歩いてみても分かるとおり、外国人にも人気の観光コースです。 そのため、妻籠城址には中世城館跡としては異色ながら、英語による説明が併記されて います。そして本丸まで登ると、妻籠宿側の樹木だけが整理されているので、眼下に宿場 の風景が一望できます。宿場から馬篭峠までを一望に付すこのとのできるこの風景は、 中山道でも指折りの絶景といえると思います。ですが峠の登城口の説明板には、日本語 でも、もちろん英語でも、この絶景については触れられていません。とてももったいないこと だと思うので、いっそのこと「展望台(城跡)」と書いてしまった方がいいのではないかとも 感じました。 |
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妻籠宿の街並み越しに妻籠城址を望む。 | |
北東側から城山を望む。 | |
登城口の城址碑と標柱。 | |
小天守と本城域の間の土橋。 かつては堀切で、木橋が架けられていました。 |
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本城域を囲む空堀(外側)。 | |
二の郭跡のようす。 | |
本城域を囲む空堀(内側)と喰い違い状の土橋。 | |
同上。 | |
本丸を囲う帯曲輪と本丸土塁。 | |
本丸のようす。 | |
説明板裏の本丸土塁。 | |
本丸からの眺望。 眼下に妻籠宿。右奥の山の切れ込みが馬籠峠。 |
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小天守の土塁痕跡。 | |
同上。 | |
小天守の空堀。 | |
小天守南の曲輪の虎口状遺構。 | |
妻の神土塁を望む。 | |
妻の神土塁。 | |
同上。 | |
おまけ:妻籠宿の風景。 |