政元城(まさもと) 付 政元奥城(まさもとおく) |
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別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 吉村政元か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : JR高山本線飛騨古川駅からバスに乗り、 「流葉口」下車徒歩20分 |
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<沿革> 江馬氏家臣吉村政元が居城したことからその名が付き、子の政延と2代で在城したと 伝わる。現地説明板によれば、政元は2500石を知行したとあるが、江戸時代の高山藩 の石高が3万8000石であったことを鑑みれば、過大な数字と思われる。 一方、『飛騨市山城マップ』には城主として正本主馬の名も挙げられており、政元城の 来歴は詳らかでない。 <手記> 神岡町山田の大国寺裏手の丘が政元城跡です。江馬氏の本拠地高原から古川への 街道は、ここで南の大坂峠越えと西の数河峠越えの大きく二手に分かれることから、 江馬氏にとって重要な拠点城であったことは間違いないでしょう。天正十年(1582)の 八日町の戦いで江馬輝盛が敗れ、そのまま高原郷まで三木姉小路氏に攻め入られて 江馬氏は滅ぶわけですが、その際に両軍とも大坂峠を越えているはずなので、政元城 もこのときに落城したものと思われます。 大国寺裏手に説明板があり、そこから山道が通じています。寺伝によれば、大国寺は 「江馬氏館跡」に建立されたとあるそうですが、おそらく城主吉村氏ないし正本氏の誤り でしょう。 城跡は、腰曲輪に四阿が建てられているなど簡単な公園のように整備されています。 主郭の下に帯曲輪があり、北東と南に腰曲輪を設け、背後には堀切を穿っています。 一番の特徴は、主郭自体が堀切で2つに切り分けられていることです。とはいえ、この 堀切は規模が小さく、また後方部分は狭小で、井楼櫓か狼煙台くらいの広さしかありま せん。また、後尾の堀切は鞍部より城内側の斜面筋というやや不自然な位置にあり、 あるいは鞍部にももう1条堀切があったとも考えられますが、現状では視認できません でした。 政元城から尾根伝いに、さらに100mほど登ったところに政元奥城跡と呼ばれる遺構 があります。峰の頂部の周囲を切岸&土塁で盛った区画で、南西の尾根筋には堀切も 穿たれています。その先の鞍部も堀切に加工されているように見えるのですが、他方 で最大の弱点と思われる緩やかな北方面の尾根は自然地形のままで、そこまで防御 を意識しているようには感じられませんでした。 ところで、城内を見学中、草刈り機をもった男性に出くわし声をかけられました。なん でも、山林にありがちな所有者が入り組んでいて手入れがおろかになっているところを、 所有者というわけでもないにもかかわらず、自主的に登山道などの整備をなさっている そうです。この方のお話によると、奥城からは数河峠が望めるので、その監視のための 物見台か狼煙台だろうとのことでした。また、頼まれたわけでもなく整備をしているのは 城跡に人を呼びたいからだそうです。できるだけたくさんの人に来てほしいという気持ち で続けておられるとのことなので、このサイトをご覧になっている城跡好きの諸氏には、 ぜひほかの城好きにもおすすめしていただけたらと思います。 |
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政元城跡近望。 | |
大国寺を見下ろす。 | |
主郭土塁とその下の帯曲輪を見上げる。 | |
四阿の建つ北東の腰曲輪。 |
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主郭のようす。 | |
主郭を前後に分ける堀切。 | |
主郭南方の腰曲輪。 | |
主郭背後の堀切。 | |
政元奥城の土塁。 | |
同上。 | |
奥城の郭内のようす。 | |
奥城背後の堀切。 | |
その向こうの鞍部。こちらも堀切跡か。 |