高山城(たかやま) | |
別称 : 天神山城、多賀山城、白雲城、臥牛山城、冑山城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 多賀徳言 | |
遺構 : 石垣、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR高山本線高山駅徒歩20分 | |
<沿革> 文安年間(1444〜49)に、飛騨守護京極氏の守護代として入国した多賀出雲守徳言に よって築かれたとされる。当時は多賀山城と呼ばれ、これが今日の高山に通じるものと 推察される。また、多賀氏の本貫地の近江国から多賀天神を勧請し、天神山城の別称も 生じた。永正年間(1504〜21)には高山外記が在城していたとされる。外記は多賀氏の 一族ともいわれるが、詳しい系譜は定かでない。その後の高山氏については定かでない が、永禄三年(1560)に桜洞城主の三木良頼が飛騨国司・姉小路三家の1つ古川家を 継承するころまでには、天神山城は三木氏の手に渡っていたものと推測される。また、 良頼の子自綱(姉小路頼綱)の代には、良頼の弟久綱(久頼)が天神山城主に任じられ ていたともいわれる。 天正十三年(1585)、飛騨国は羽柴秀吉の命を受けた金森長近によって平定された。 長近ははじめ鍋山城を居城としたが、同十六年(1588)に天神山の古城跡を取り立て、 新たに築城を開始した。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いまでに、本丸と二の丸が完成 したとされる。 関ヶ原戦後も普請は続けられ、慶長八年(1603)までに三の丸が設けられたと伝わる。 その後も金森家6代の居城として続いたが、元禄五年(1692)に金森家が出羽国上山藩 へ転封となると、飛騨は天領となった。城は同八年(1695)に破却され、飛騨の行政府 の機能は高山陣屋に受け継がれた。 <手記> 今日の飛騨高山の基礎となった城で、公園として整備されているものの、観光の中心 からはやや離れている感があります。車であれば、庭樹院屋形(北二の丸)跡に無料の 駐車場があり、ここには金森長近の銅像もあります。また、滞在先で園内にある茶屋の 焼き鳥をおすすめされたのですが、たしかにとても美味しかったです。茶屋の中で女将 さんが串打ちをしていて、身が大きく熱々ホクホクでした。お蕎麦もなかなかでしたので、 昼時に訪城するとよいかもしれません。 高山城は大きく山城部と中腹以下の御殿部に分かれ、後者は庭樹院屋形のほかに 照蓮寺境内となっている二の丸や、護国神社および幼稚園となっている三の丸があり、 三の丸には水濠も残っています。 山城部は、城下町側の北が搦手で、南が大手とされています。どちらからも遊歩道が 整備されているので、ぐるっと一周するコースがよいでしょう。とはいえ登りやすいのは 間違いなく搦手で、当時もどれだけ律義に大手を守っていたのかは眉唾に感じます。 搦手から登ると、本丸の手前に中段屋形という区画があります。さほど広いスペース ではないのですが、当時は懸造りの館建築があったとみられています。本丸の下には 東北曲輪という腰曲輪が付属しており、その陰には水手門跡があります。そこから本丸 の裏手下にまわると水手曲輪で井戸があったということですが、それらしきものは見え ませんでした。 本丸は上下2段に分かれていて、上段の石垣が一部復元されています。下段の石垣 も復元する予定があるのか、一部の土塁がたたき直されているようすでした。本丸は、 近世城郭にしてはかなり狭く、ここにやはり懸造りを駆使した御殿がギチギチに建って いたようです。 本丸の大手側は部分的に石垣が残り、その先には南之出丸があります。その向こう は自然地形なので、大手の門があるならここと思うのですが、それらしき表示などは ありませんでした。 全体として、ほぼ総石垣の近世城郭でありながら、繰り返す通り規模としては小さい ように感じます。この点は、金森氏が地方統治のために築いた東町城や萩原諏訪城 などについてもいえます。飛騨一国という広さに比して石高は3万8千石しかなかったと いうことで、金森氏の経営観がうかがえるようで興味深い点といえるでしょう。 |
|
宮川にかかる鍛冶橋から高山城跡を望む。 | |
三の丸跡。 | |
庭樹院屋形(北二の丸)跡の金森長近像。 | |
中段屋形跡。 |
|
同上。 | |
東北曲輪。 | |
水手門跡。 | |
本丸下段搦手門脇の土塁。 石垣を復元する予定か。 |
|
本丸下段のようす。 | |
本丸上段の復元石垣。 | |
本丸上段のようす。 | |
本丸上段の建物下出入口跡。 | |
本丸下段の大手側石垣。 | |
南之出丸跡。 | |
二の丸跡に建つ照蓮寺。 | |
松倉城跡から高山城跡を俯瞰。 |