枡形城(ますがた)
 別称  : 枡形山城
 分類  : 山城
 築城者: 稲毛三郎重成か
 遺構  : 曲輪跡
 交通  : 小田急線向ヶ丘遊園駅徒歩15分


       <沿革>
           小山田有重の子稲毛三郎重成によって築かれたと伝わる。重成は、稲毛荘を支配し、勢力を橘樹郡
          に広げ枡形城を本拠に、また北に小沢城を支城として築いたといわれる。枡形城の北、登城路とされる
          暗闇坂の入り口に建つ広福寺は重成の居館跡と伝わる。ただし、これらは全て伝承によるものであり、
          確証があるわけではない。
           稲毛氏は、元久二年(1205)の畠山重忠の乱に巻き込まれて滅ぼされた。これによって、枡形城は
          一旦廃城になったと考えられる。
           永正元年(1504)九月二十日、長享の乱に際して扇谷上杉朝良の援軍として出陣した北条早雲
          (伊勢宗瑞)は、枡形山(正確には城址か)に陣を張った。翌日には早雲の主筋である今川氏親の軍も
          枡形山に到着し、二十七日には山内上杉顕定軍との間で立河原の戦いが行われた。このとき枡形山
          はすでに城の体を成してはいなかったと思われるが、おそらく陣城程度には取り立てられたものと推察
          される。
           永禄十二年(1569)に武田信玄が北条領に攻め込んだ際、横山式部少輔弘成(北条家臣か)が塁を
          築いて備えたと、『新編武蔵国風土記稿』にある。『記稿』からは、弘成の子孫が当地で名主を務めた
          ことが読み取れ、弘成以降も枡形城下に居を営んだものとも考えられる。


       <手記>
           枡形城は、生田緑地に隣接していることや向ヶ丘遊園に近いことから、周辺では比較的知られた城跡
          です。ただし、知名度の割には遺構は判然とせず、山頂は城跡にしては少々だだっ広い広場となってい
          ます。おそらくは、きちんと縄張りをして整備した城郭ではなく、臨時に立て籠もる砦程度のものであった
          と推測されます。
           広場には、城址碑や微妙に城郭風のエレベータ付き展望台があります。展望台からの眺望はさすがに
          すばらしいですが、当時より明らかに高い位置からの眺めですので、中世城郭ファンとしては素直に喜べ
          ない代物でした。
           枡形山の北東の飯室山にも曲輪が設けられていたとする向きもありますが、いかんせん遺構がはっきり
          しないので、何ともいえない感じでした。この飯室山と枡形山を結ぶ尾根道と、城の北から登る暗闇坂が
          当時の登城路と思われますが、2つとも山頂広場の手前で道幅が狭まり、道の両側が削られたように切り
          立っています。もしかしたら、土橋状に道の両岸を人為的に削ったのかもしれません。
           暗闇坂の入り口には稲毛重成の居館跡と伝わる広福寺があります。ただ、私には寺がそのまま館跡と
          はちょっと思えません。広福寺は細尾根の上にあり、どちらかといえば寺の両脇の谷間の方が、当時の
          館地形として相応しいように思われます。
           

           
 枡形城址碑。
枡形山山頂広場。 
 枡形山展望台。
稲毛氏館跡と伝わる広福寺の板碑。 


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