馬杉北城(ますぎきた)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 馬杉氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR草津線油日駅から車で5分


       <沿革>
           馬杉谷に散在する城館群の一つだが、詳細は不明である。馬杉北城の主郭に建つ
          る太子堂の伝承によると、物部守屋を追っていた聖徳太子がこの地の杉原斎入なる
          忍者に助けられ、守屋討伐に成功したことから、斎入に馬杉の家名を与えたとされる。
          ただし、周知の通り守屋は河内国の自領で太子に討たれており、到底事実とはいい
          がたい。一般には、馬杉氏は甲賀二十一家の代表格である伴氏の一族といわれて
          いる。
           馬杉氏の動静について、詳細は不明である。


       <手記>
           馬杉谷を構成する浅野川北岸一帯の丘陵の最高所に位置する城です。上述の通り
          太子堂=馬杉北城跡で、南西麓から太子堂への案内と道が付いているので迷うことは
          ないでしょう。道の途中には馬杉中城が、ひとつ東側には岡之下城があります。中城
          と北城は一度に回れますが、岡之下城については峰続きではあるものの、こちらから
          の訪城は困難です。
           主郭である太子堂境内は2段に削平されていますが、いずれも狭く4〜5人も入れば
          満員でしょう。主郭を中心にちょうど十字に尾根が延びており、南と東に各1条、そして
          西側尾根には2条の堀切が穿たれていました。ただし、西側2条目の堀切はごく浅く、
          斜行しているため旧道の可能性もあります。また、西尾根には低い土塁をもつ曲輪と、
          二重堀切の先に物見台状のピークも見られました。
           北尾根にも削平地が一つあり、その先に堀切があったように思えますが、麓からの
          道が尾根を跨いでいるため地形が崩されています。
           このように、馬杉北城は甲賀式の特徴を持たないごく一般的な山城の構造であり、
          なおかつ規模は小さいのであまり実用性は感じられません。馬杉谷防衛の役に立って
          いるようにも感じられないこの城が築かれたのは、ひとえに太子堂の存在に拠るもの
          と推察されます。
           既述の通り、事実とは考えられないものの、馬杉氏は聖徳太子に家名を与えられた
          ことに始まるとされています。そのアイデンティティーと、周辺諸土豪に対する優越性を
          示す拠り所として、太子堂は馬杉氏にとって聖地ともいうべき重要性をもっていたので
          しょう。

 主郭を見上げる。
南尾根の堀切。 
 太子堂。
太子堂境内下段を俯瞰。 
 西尾根の腰曲輪と土塁。
西尾根1条目の堀切。 
 同2条目。
堀切の先の小ピーク。 
 東尾根の堀切。
同上。 
 北尾根の腰曲輪。


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