鱒沢館(ますざわ)
 別称  : 上町館
 分類  : 山城
 築城者: 鱒沢守綱
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR釜石線荒谷前駅徒歩15分


       <沿革>
           15世紀後半ごろ、横田城主阿曽沼光綱の次男守綱は、鱒沢に分家して鱒沢氏を
          称した。鱒沢館も守綱が築いたとみられているが、築城年などは不明である。鱒沢
          氏は独立色が強く、本家に対ししばしば反抗的であったとされる。
           天正十八年(1590)、阿曽沼広郷は小田原の役に参陣せず、改易は免れたものの
          南部氏の与力とされた。留守中の鱒沢氏の動向に不安があり、参陣したくても領国
          を空けられなかったともいわれる。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、広郷の子広長は南部家の命令を受けて
          最上氏の救援に赴いた。その留守をついて、鱒沢左馬助広勝と横田城(鍋倉城)
          留守居の上野広吉および平清水平右衛門の3人が謀叛を起こし、横田城を占領した。
          広勝は南部利直の妹を妻としていたとされ、謀叛は阿曽沼氏排除を企図した南部家
          の意向によるものといわれる。
           広長は、気仙郡の諸領主や伊達氏の援助を受けて所領の奪還を図った。広勝は
          機先を制して平田館に攻めかかったが、激戦の末に討ち取られた。しかし、広長は
          その後も横田城を落とすことができず、伊達氏を頼って世田米で余生を送ることと
          なり、遠野領主としての阿曽沼氏は滅んだ。
           広勝の跡は子の忠右衛門広純(広恒)が継いだが、後に謀反の疑いをかけられて
          切腹を命じられた。一説には利直の妹を娶っていたのは広純で、2人が不和になった
          ことが嫌疑の遠因となったともいわれる。これにより鱒沢氏は断絶となり、鱒沢館も
          廃城となったとみられる。


       <手記>
           長泉寺背後の山が鱒沢館跡です。境内裏から登れるということなのですが、樹木を
          伐採してそのままのようで、人を寄せ付けない猛藪と化していました。あるいは、雪が
          積もって溶ければ…とも思うのですが、それでも改めて草を刈らないと踏査は難しい
          でしょう。
           鱒沢館は縄張りに特徴があり、山頂ではなく山腹に数段の削平地を設け、その周り
          を二重の堀と土塁で囲っています。数段の削平地からなる広大な主郭という点では、
          本家の居城である旧横田城と共通しており、一応、阿曽沼氏の築城プランを踏襲した
          構造であるといえるでしょう。
           山麓の長泉寺は、広勝が天正二年(1574)に創建し、もともとは寺畑というところに
          あったそうです。境内のカヤの木は「左馬助(広勝)手植の榧」といわれるということ
          から、おそらく現在の境内が平時の居館跡だと思われます。
           貴重かつ印象的な縄張りらしいので、できれば再び人の目に触れられるようにして
          いただければと願うばかりです。

           
 鱒沢館跡を望む。
長泉寺のカヤの木。 
境内は居館跡か。 
 境内裏手から鱒沢館跡を見上げる。


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