松葉城(まつば) | |
別称 : 岩瀬城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 西園寺氏か | |
遺構 : 曲輪、土塁、石塁、堀、井戸跡 | |
交通 : JR予讃線上宇和駅徒歩30分 | |
<沿革> 伊予西園寺氏累代の居城である。伊予西園寺氏は、西園寺公経が鎌倉時代中期に橘公業 から強引に譲り受けた宇和荘へ、南北朝時代の永和二/天授二年(1376)に西園寺公良が 下向したことにはじまるとされる。松葉城が公良下向以降に築かれたのか、それ以前から存在 していたのかは不明である。また、もともとは岩瀬城と呼ばれていたが、あるとき宴席で酒杯に 松の葉が入り、これを吉祥として城の名を松葉城と改めたといわれる。ただし、真偽はもとより いつごろの逸話なのかも定かでない。 『宇和旧記』によれば、7代西園寺実充が黒瀬城の築城および居城移転を計画したが、完成 前に死去し、子の公家の代に移ったとされる。しかし、実充の嗣子の名は公高であり、家督を 継ぐことなく弘治二年(1556)に討ち死にしている。一般的には、実充の在世中に築城・移転が 完了していたとみられている。移転の理由は、松葉城の要害性に難があり、水利も悪かった ためといわれるが、異論も多くはっきりしていない。以後、松葉城は黒瀬城の支城となったもの と思われる。 <手記> 松葉城は標高588mの烏殿(からすでん)の支峰上にあり、宇和の街と肱川を挟んで黒瀬城 と向かい合っています。満慶寺前の道を南へ行くと登城口があり、説明板や鳥瞰イラスト、さら には御城印の無人販売もあります。他方で付近に駐車スペースがないのは難点です。私は、 下松葉交差点北の溜池脇の道路がやたら広かったので、そこに駐車して歩きました。 案内通りに登っていくと、主郭背後の堀切に出ます。堀切の切岸に架かる階段を上がると、 主城域最高所の土塁があります。この土塁はコの字型になっていて、櫓台というよりは烽火台 かな、といった感じです。土塁の下が主郭とみられ、石祠があるほか、岩瀬城の初名のとおり あちこちに岩盤が露わになっています。 主城域は東西に細長く、段差でいくつかに区画分けされています。主郭以外は曲輪の境が 分かりにくく、城内からは青磁などが大量に出土しているということから、戦闘用というより都の 風情を疑似体験できるような館施設がメインだったのかもしれません。 先端部の土塁は基部が腰巻石垣のような石積みで固められているのが大きな特徴です。 また、北西隅付近には虎口ないし竪堀状態の凹地形がみられ、小規模な堀切の先に擂鉢状 の出曲輪があるのも確認できます。 松葉城については、黒瀬城への移転理由が大きな論点といえるでしょう。松葉城は要害性 に乏しいためともされていますが、たしかに中腹の斜面は緩やかなものの、主城域の周囲は かなり屹立した急崖となっています。黒瀬城と比較しても、地形的にそれほど優劣の差がある とは思えません。 『日本城郭大系』などでは、三間・大洲・法花津方面からの侵入により早く対応できるためと 推測していますが、実際には黒瀬城からこれら三方の峠はどれも視認できず。少なくとも大洲 方面に対応するなら松葉城の方がわずかながら有利です。いずれにせよ両城は指呼の間に あるので、地理的な対応スピードを理由とするのは無理があるように感じます。そもそも、宇和 盆地に侵入されるまで情報が伝わってこないということがあるのか、疑問です。 一方、水利が悪いというのは、岩盤質の松葉城ではあり得るかなとも思われます。加えて、 松葉城は城塞としての拡張性に乏しく、戦国の世における戦い方の変化に適応できなかった のではないか、というのが個人的な見解です。貴族の館としての側面ももつ南北朝期以来の 詰城から、籠城戦に適した実践的な城塞を志向して、拡張性も担保した黒瀬城を整備したの ではないかと考えています。 |
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黒瀬城から松葉城を望む。 | |
主郭背後の堀切。 | |
主城域最高所の土塁。 | |
同上。 | |
主郭のようす。 | |
同上。 | |
主郭の窪み地形。虎口跡か。 | |
主郭から主城域先端方面を俯瞰。 | |
井戸跡。 | |
主郭の土塁。 | |
主城域先端部のようす。 | |
先端部の基壇石積みを伴う土塁。 | |
主城域北西隅付近の凹地形。 虎口ないし竪堀跡か。 |
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主城域北西隅の先の、 堀切を伴う擂鉢状の出曲輪。 |
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先端側から主郭方面を望む。 | |
松葉城からの宇和市街方面の眺望。 中央の峰が黒瀬城跡。 |